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反映のスキル

きょうも楽しんでますか?「きょうとあした」代表の「たかコ」こと、どいたかふみです。コはコーチのコですW 

秋の御所をゆっくりと走る

内御所の東、林の中にそのイチョウは静かに佇んでいる。大きくて立派な幹、迫力のある枝ぶりと、あたりから立ち込めるいのちの気配が、このイチョウを特別な存在に感じさせる。

秋深まり、突如鮮明になった朝晩の冷え込みが、うっかり忘れていた冬の到来を急かす。この時季になると、大木の周りの空気が変わるのが分かる。日々移ろいゆく色彩と重量感。大木の足下に、少しずつ確かに、黄色のステージが姿を見せる。

小刻みに呼吸を弾ませてこの木の傍を走り抜ける。夕暮れ前の柔らかな西日が、ことばにならない、息をのむほどの鮮烈な光景を創りあげる。視覚だけではない、その温度、質感。見ているようで、見ていない。或いは、見ている以上のなにかを観ている感覚。

プロセスの中にいる

去年は感動のあまりたくさん写真を撮った、この瞬間の思い、この感情を切り取りたい。記憶したいと思っていた。今年は、迷いながら、立ち止まらずに毎日移ろう景色を眺めつつ駆け抜ける。ただやり過ごす。止めることなく、流れるプロセスの中にいる。

色づきが濃くなり、落ち葉が増え始める。きょうも午後4時の西日が、イチョウの威容を美しく照らす。少し濃い目の深い黄色。

ああ、いまがピークだろうな、そう思ってからさらに2日ほど更新する。きょうこそが最高の状態だと何度も思う。あしたにはもう葉が散り落ち、終わるだろう。

そのときふと、木に尋ねてみた。命を燃やして、今まさに最も美しいあなたは、なにを思っていますか?木は答えない。静寂が包む。

そもそも、紅葉は死の過程に他ならない。葉にとって冬枯れの最期の瞬間が散りゆくことなれば、死に向かうプロセスをただ淡々と過ごしている。観ているこちらはまさにいのちの輝き、人生のクライマックスみたいに感じているのに、木は、その命の一部がゆっくり消えゆく瞬間をただやり過ごしているに過ぎない。

場の感情の反映

ああ、感じているのはぼくなんだ。木は、判断しない。なにも言わないし、答えない。ただ、そこに居て、ぼくの心を写す。究極の反映、Natural Reflections。自然はただ、起きていることを、そこに生まれた感情をこちらにそのまま返す。まるで鏡みたいに。本人すら気づいていないかのように、ただ自然にそこに居て、選ばずに、判断せずに、ただ返す。木は、決して我々を動かさない、導かない。

先日ワークショップでご一緒した、カナダ人のORSCコーチMs. Janet Froodの教えを思い出していた。身近にある自然の定点観測、出来るだけ同じ場所で、自然と繋がるインナーワーク。自然の力を感じ、自らの在り方に取り込む。ああ、まさに御所の同じコースを一年を通してゆっくりと走り続けることは、自分にとってインナーワークなんだ、と深く認識した記憶。少し得意げな、自己陶酔にも似た感情が浮かんで、消えた。

ふと我にかえり、深く気づいた。自然を観測するのではなく、自分を見つめるんだ。移ろいゆく季節、その瞬間の風景の中にいて、人間は色々なことを感じたり、考えたり、動いたり、判断したりする。快と不快をせわしなく絶え間なく行き来しては、意味をつけたり一喜一憂したり、またそれを反省したりもする。自然の定点観測。そこに、心が動いていることを、そっと、当たり前のように意識して、気づくってことなんだ。癒されるってのは、気づくことだ。そこに居てもいいというのは、そういうことなのかもしれない。

きょうとあした

失意の中で、そのどん底で、「きょうとあした」とノートの1ページ目に書いたあの日の感情は、決して癒えることはないだろう。解決などない、昨日までのこと、昨日までの自分。記憶、痛み、悔恨と怒り、哀しみ。世界中のすべての毒素が、そこには弔われぬままに打ち捨てられている。

きょうとあしたをただ生きよう。そう思ったことを忘れずにいよう。それは決して楽しいことばかりではない。どうしようもない後悔や悲しみも全部そのまま背中に感じながら、きょうとあしたを見つめる。責任からも、歴史からも逃げることはなく、ただ、自分の奥底にある生命の力をそっと信じてみる。すがりついて、抱きついて、もたれかかって、まとわりついて、それでもいいから生きていく。

きょうも、最後までお読み戴き、ありがとうございました。あなたの感じたこと、思いをぜひ、お聞かせください。  

それでは、きょうも、あしたも楽しんで!

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