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受験と人生を振り返る

2月14日午前10時頃、京都大学から一通の封筒が届いた。その中身には「京都大学入学者選抜試験における第一段階選抜の結果、不合格となりましたので通知します。」と書かれていた。足切りである。

私は京大入試の戦いの場に上がることさえも許されなかった。今回のnoteは無謀にも京大を夢見て不合格となった私の受験結果の振り返りとこれまでの人生、そしてこれから来る浪人生活の展望を書いていこうと思う。

まずは足切りされた原因を書き綴る。これは非常に簡単で、ひとえに共通テストの結果が悲惨なものとなったためである。各教科の細かな点数は得点開示がされた際に載せるつもりだが総合の得点率は70%にも満たなかった。京大受験生ということを加味しなかったとしても7割以下というのはいただけない、共通テストリサーチではE判定が並び予備校の先生からは他校に出願することを勧められた。しかし私は京大に出願した、京大に対する執着と言っても差し支えないほどの愛情と自由への渇望がまともな判断力を奪いさり断頭台へ導いたのだ。切られたのは首ではなく足だったが。

何故これ程までに悲惨な得点率となったのだろうか。いくつか考えられるが分かりやすい理由を挙げるならば「時間が足りなかった」となるだろう。とにかく時間がなかった、私は高校時代の3年間を美術に捧げた。絵を描くのが好きで書いて書いて書き続けて気づけば高3の夏、受験を意識していなかったわけではないが美術部の活動があまりに充実していた。受験そっちのけで部活動を続けたことはそれほど後悔していない。大きな賞を取っただとかめぼしい成果は残せなかったが最後まで美術部の活動を続けてよかったと心の底からそう思う。

しかしどれほど自分が満足していようと時間は無情に過ぎていく。部活動終了時点で共通テストまで4ヶ月強、どう考えても時間が足りなかったのだ。ほぼ初学に近い理科(当時は理系であった)や倫政を急いで頭に詰め込み、2次対策を並行して行うには厳しいものがあった。そうして迎えた共通テストは前述の通り惨憺たる結果となり京大に落ち浪人が確定した。

ここからは齢18の人間がこれまで経験してきた出来事を受験に影響を与えたものを中心に書き綴っていく。気持ちの良いものではないがお目汚し失礼する。

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唐突ではあるがこれを読んでいる諸賢らは人間関係の構築は得意だろうか、私は非常に苦手である。というのは小学生時代に起因する。よくある話ではあるが見た目を理由にいじめられていた、「チビ」「盲(めくら)」という暴言を浴びせられ殴られるという探さずともTwitterに絶えず流れているようなありきたりないじめであった。

しかし当時の私には耐え難く辛かったのだろう、以来人と喋るのが苦手になりせめて見た目以外で虐められることが無いように取り繕い日々を過ごすようになった。そんな日々に終わりを告げたのは中学受験の存在だった、当時小学六年生だった私には垂涎ものですぐさま飛びつき中学受験塾に入塾した。そこからは必死に勉強した、入塾テストにて数学0/120、国語90/120という成績を取り焦りに焦っていたのか起きている間は常に勉強していた。思えば大学受験時よりも長時間勉強していたかもしれない。途中家出をし、自分に付いていたGPSのせいで引き戻されたりもしたが紆余曲折の果てに中学受験が終了した。

当時第一志望だった学校に落ち滑り止めだった第二志望の某大学附属の中高一貫校に進学した。不本意な結果ではあったが地元の人から離れられることと新たな環境に胸躍らせ次の地獄に歩みを進めた。

中学では身体のことをいじってくる人は居れど物を盗ったり暴言を吐いたりする人はほとんど居なかった。ずっと友人でいたいと思えるような友達も出来、概ね順風満帆といえる生活を送っていた。しかしいつも転機は唐突にやってくるもので、当時の数学の教師の方に「君はエスカレーター式で大学に進むより受験した方がいい」と言われた。先生は私の成績や虚弱体質、学校の進学実績など様々なものを考慮し発言されたのだろうがいずれにせよ当時の私にとってその言葉は青天の霹靂であった。大学附属の中学に進んだのだからその附属大学に進むべき、その認識は先生の一言で打ち砕かれたのだ。

そうは言っても所詮は中学生、大学受験の解像度は2000年代のビデオ並み、のほほんと中学校生活を過ごした。そして迎えた中学卒業式、最も仲の良かった友人から予備校に通うという旨の話を聞きうっすらと大学受験を意識し始めた。その友人は他校に進学した。私も高校受験すれば良かったと今でも考えてしまうが後の祭り、詮無いことだ。高校に入学すると同時に東進衛星予備校に入塾した。近所の大手予備校がそこしか無かったために入塾したが今思えばあまり良くない選択だったのかもしれない。結論から言えば私には少し合わなかった、無論東進だから受験に落ちたと言うつもりは毛頭ないが集団指導の塾の方が肌に合っていたのだろう。東進自体は授業も分かりやすく通いやすく非常にいい塾であった、学費がもっと安くなれば本当にオススメしたい塾だ。

親友が他校に行き周りには苦手なタイプの人だけが残り楽しくない高校生活を送るとともに自身の虚弱体質が悪化していった。高一時の記憶はほとんど無いため省略させて頂くが通知表によると体質が悪さをし、1年の4分の1程度は休んでいたようだ。これで退学になっていないのが不思議なくらいだがコロナ禍の影響で体調不良による休みは全て公欠扱いとなっていた。神である。休みすぎたために退学したのではないかという噂が流れ始めた頃に進級が決まった。進級先は自称進学校御用達、特進コースである。

膨大な課題に押し潰されながら部活に友達付き合いに楽しい生活を送るようになっていた。この頃には人と喋ることへの苦手意識は薄れていた。初恋相手に恋人ができたり友人が数名学校を辞めたり色々あったがなんやかんやで高三となりあとは前述の通りである。

高校生活を終え、友人が旧帝大を筆頭とした様々な大学に受かっていき、次々と髪を染めたりバイトを始めたりしているのを眺める日々を送る現在、もう一度不合格の烙印が押された根本的な原因を探る。

きっと私には「人生の当事者意識」が無かったのだろう。少々雑な言い方をすると受験、ひいては人生を舐めていた。今となっては空しいものだが中高とそこまで苦労せず成績を伸ばしてしまっていた、中途半端に要領が良かったために焦りを感じなかった。このままじゃ京大に受からないと気づいたときにはもう遅かった、同じ京大受験生はずっと前に居て自分だけ目も当てられないような成績を取り逆転なぞ起きるはずもなくアッサリと不合格通知が届いた。

受験に区切りが付いてから少し勉強から距離を置いた。人より努力していないくせに一丁前に疲労感だけ溜まっていたのだろうか。不合格報告をお世話になった方々に報告する中で様々なことを話した、浪人するのかどうか、文転するのかどうか、来年も京大を目指すのか、どこの予備校に通うのか、これからどうするのか、そんなことを話すなかでやっと少しだけ自分と向き合えたような気がする。

自分のこれからに絶望し塞ぎ込むことは簡単だ、しかしそうして過ごすのも疲れてきたのかもしれない。3月も半ばに差し掛かり暖かな日が増えてきた現在でさえも油断すれば夜通し過去の自分に謝り、罪悪感が自分の首を締め付けそうになるがもう次を見据えなくてはならない。

今年大学から要らないと言われ予備校からは失礼な手紙が多数届き嫌になる日々だがそろそろ前に歩き出さなければいけない。悔しさも怖さも悲しみも全て糧にして1歩ずつ、例え牛歩であろうとも確実に前に進んでいかなければならない。「努力は必ず報われる」そんな辟易するようなサクセスストーリーを夢見て努力を続けよう、1度は人生を捨てそうになった身、文字通り命を賭して受験勉強に打ち込むのも存外悪くないのかもしれない。

来年度から私は河合塾の厄介になる、まだ何も始まっていない現状ではなんとも言えないが現役時代よりも深く学習するのではないかと思われる。足切りにかかった人間は普通浪人しないだろうからほぼ間違いなくクラス最下位からのスタートとなるだろう。このnoteを通してこれから1年、自分の成績や心境の変化など赤裸々に語っていくつもりだ、この稚拙で冗長な文章を読む人は私の友人かチューターに限られるだろうがどうかお付き合いいただきたい。


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