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1119-1164年[在位 1123-1142年/19年/3歳で即位]
父:第74代 鳥羽天皇
母:藤原 璋子(待賢門院)白河上皇の養女)
妻-子:
 藤原 聖子(摂政関白太政大臣・藤原 忠通の娘)
 兵衛佐局(藤原北家庶家 小野宮流、法勝寺の僧の娘)-重仁親王
 綾 高遠の娘 他

崇徳天皇は、第74代 鳥羽天皇藤原 璋子(待賢門院)の第1皇子で、院政がが標準になった1123年、父から3歳で譲位された。6年後、祖父の白河法皇が亡くなり、二十代半ばの鳥羽上皇の院政が始まる。摂政・藤原 忠通の娘・藤原 聖子が中宮となる。六勝寺のうち、成勝寺を創建する。

第50代~第77代の天皇系図

1141年22歳の時に鳥羽上皇により、2歳の異母弟(母は藤原 得子)である第75代 近衛天皇へ譲位させられる。上皇になってからは鳥羽田中殿で和歌などに没頭した。

里内裏として使われた土御門内裏跡
(京都市上京区元浄花院町)

近衛天皇は17歳で病で亡くなり、得子の養子・二条天皇までの中継ぎとして、その父で崇徳上皇の同母弟・第77代 後白河天皇が即位させられた。崇徳上皇の院政の可能性はなくなった。また、近衛天皇の崩御は、崇徳上皇の近しい藤原 頼長の呪詛によるとの噂が流布される。

1156年、鳥羽法皇が崩御し、崇徳上皇と藤原 頼長が兵を集めているとの噂が立ち、源 義朝らが頼長の邸宅を没収。崇徳上皇は鳥羽にいると捕縛されることなどから源 為義らと白河北殿に陣取るが、後白河天皇方に逆らったとされて夜襲をかけられ降服。周囲にいる朝廷・文官・武官の複雑な利害関係から起こった『保元の乱』である。

崇徳上皇は讃岐に流され、9年を過ごし亡くなった。最期は暗殺されたとも伝わる。その後、京都で要人たちが亡くなるなどの異変が起き、1184年 後白河法皇は白河北殿跡に崇徳上皇を祀る粟田宮を創建。その後も文学や芸能にたびたび取り上げられて都度脚色され、明治維新に際しては霊力を頼む対象にされるなどした。

崇徳上皇が6年過ごした御所跡にある鼓岡神社
讃岐国府の近くにある
(香川県坂出市府中町)
崇徳天皇陵がある白峰山からの讃岐の風景
崇徳天皇陵と歌碑
(香川県坂出市青海町)
崇徳天皇皇后聖子陵
(京都市東山区本町)
崇徳天皇御廟
縁者が崇徳上皇の遺髪を埋めたと伝わる
(京都市東山区祇園町南側)
崇徳院地蔵
(京都市左京区聖護院中町 積善院準提堂境内)
白峯神宮
1868年 飛鳥家の屋敷跡に崇徳天皇・淳仁天皇を祀る
(京都市上京区飛鳥井町)
崇徳天皇欽仰之碑 白峯神宮境内

『京都遠足』P47
https://www.worec.jp/03kyoto.html