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炎上思案

「炎上」。

この語がいつから現在のような意味で使われるようになったのかもはや定かでないが、燃えるにしても(当事者には申し訳ない事だが)対岸の火事のままであってほしいと願いさえするものだ。
最近は対岸で起きていたはずの火事も、風向きと風速次第で容易にこちらへ飛び火する。


このたぐいの非難は本来、「糾弾」「指弾」などといった語で表されてきた。

そう、【弾】である。
この字について、漢字のきわめて古い形である甲骨文字では、弓によって丸いもの=「たま」をまさに「はじく」様が描かれている。
ここから引伸して、ある対象を責めて「はじく」こと、それが人であれば非難することを指すようになった。

その撃たれるだけでも痛い弾が、今では当たったら大炎上だ。
現代の「弾」は焼夷弾か何かであろうか。

ともあれ、大事なのはまず自分が着火源にも引火源にもならないようにすることだ。
他山の石にするつもりが持ってきたのは石炭だった、なんてことも避けたい。


さて、ここのところは個々の界隈で有名な人物が舌禍で炎上する事例を頻繁に見かける。

これについては、自分の発する言葉を正しく制御するかどうか、という観点も勿論重要だ。

ただそれと共に、有名になることの重さや責任についてじゅうぶんな心構えを持たないまま名声だけを得てしまっている人が増えたのではないか、と俺は考える。

話題の羽生結弦然り藤井聡太然り、真にアスリートやプロと呼ばれる人は、華々しい成果を挙げるほどに自分を省み、自己の言行を慎んでいる。
また豪放磊落で知られた名優の勝新太郎(故人)は晩年癌であったにもかかわらず、「タバコをやめた」と記者会見で言いつつ、その場でタバコをふかすパフォーマンスをやってのけた。

これらの例は逆に見えるようで、実は一致している。
ファンが、一般人が、自分に対して抱いているであろうイメージを大事にし、自分に求められるものを表現しているという点で共通しているのである。
そしてこれが「有名税」というものなのだ。


今は多様性が謳われるようになって、選ばれた少数の人に憧憬を抱くだけの時代は過ぎ去った。
SNSなどをきっかけとして、誰もが有名になれる可能性がある。

ただ、何かを得るということは常に代償を伴う。
称賛や注目を得たことの代償として何が自分に求められるのかに考えが回らないとしたら、それは全くの浅慮である。

ある人たちの場合その浅はかさこそが、まさに思慮分別の欠けた発言となって表れ、世を騒がせることになっているのではないだろうか、そんな印象を受けた。

聖書のルカ福音書12章48節にある「多く与えられた者には多くのことが要求される」という至極明快な原則は、これが語られたときから約2000年経った今でも変わっていないように思う。

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