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バナナ

バナナが嫌いだ。
好きだったことも無関心だった事もない。
ずっと嫌いだ。

バナナの匂いが嫌いだ。
二階建てのさびれたアパート。軋む階段は、足を置いた時と離した時で音階が変わる。先が茶色くなったビニール傘が玄関前に2本並んでいて、薄水色のドアに付いてる「202」と書かれたプレートは、錆びたネジが茶色の涙を流しているようだ。
朝、ひどく汚れたガラス窓、破れた網戸、シミの付いたレースカーテンを通って光が差し込んでくる。
目を覚ますと、机の上に食べかけのカップラーメンがいる。どうやら、食べている途中で寝てしまったらしい。
あちこち痛む体を無理に起こし、冷めて伸びた麺をすする。美味しくない。

ギィ…コッ、ギィ…コッ、

階段の音が下から上に登って来る。
ドアの前で足音が止まり、音の割れたチャイムが響いた。
チェーンをかけて、ドアを開ける。
目線を少し下げるといかにも不機嫌そうな表情のおばさんが酒で潰れた声で言う。
「家賃を払え」と。
その言葉が耳に届くとほぼ同時に、
甘ったるい香水の匂いが鼻に入り込んでくる。

そんな匂いがする、バナナって。

バナナの食感が嫌いだ。
「今年の文化祭での2年3組の出し物は、水の上を走れるプールに決定しました。」
落胆する女子の声を掻き消すように、男子の汚い笑い声がクラス内に飛び交った。
自分の事をノリがいい先生と思っている担任が、黒板に書かれた他の候補を消していく。
屋台、劇、お化け屋敷…
「普通のことしても思い出にならないからな!いいんじゃないか!」
そう言う担任の左薬指に光る指輪が、
なんか凄い嫌だった。

文化祭まで残り3日。
他のクラスは準備に忙しそうにしつつ、充実感あふれた顔をした生徒で賑わっていた。
一方で、少し大きめのビニールプールと水と大量の片栗粉を用意するだけの私のクラスは、気だるく気だるく時間を過ごしていた。
流石に後悔しているのか、顔の引きつった担任が
「少し早い気もするけど、出来るか検証も兼ねてプール作っちゃうか!」
と言うと、少し時間を空けて
「はーい。」と生徒達が間抜けな返事をした。

校庭へ出て、ビニールプールに水を張り大量の片栗粉を入れる。そうすることで、ゆっくり触るとドロドロ、素早く叩くとカチカチになるダイラタンシーと呼ばれる現象が起こるらしい。

「うわっ!スゲえ!!」

男子が白い水の上を走り出した。
素早く足を動かし、細かい歩幅でプールの端から端まで移動している。
その滑稽な動きに、みんな笑っている。

「全員やって、誰が1番速いか競走しようか!」

先程の引きつった顔からは想像もできないくらいテカテカな笑顔で担任が言った。
ダルそうにしてたクラスメイト達も水を得た魚のように、ピチャピチャとはしゃいでいる。
水の上で走る事はとても体力がいるらしく、
走り切る人と途中で脚が上がらなくなる人は半々で、足の遅い私は少しホッとした。

私の番が来た。あまり興味は無かったが、少しドキドキしている。
少し助走をして、一歩、二歩と踏み出した。
しかし、三歩目で足がドロドロの水に掴まれてしまい、大きく転んだ。
体が沈み、口の中にドロドロの水が入ってくる。気持ち悪い。
ネチャネチャと糸を引き、口の中を張り付いて息ができない。

そんな食感がする、バナナって。

バナナの色が嫌いだ。
夜勤明け。
眠気はとっくに通り過ぎたが、疲弊した目を朝の光がゴンゴンと叩く。
会社から家までは歩いて25分ほどの距離なので、運動不足解消のため歩いて帰る。
朝の静かな住宅街。
歩道の脇には回収を待つゴミ袋が並んでいて、大量に生活があるのだなと思う。
子供達が隊を作り学校へと向かっていく。
この道は通学路になっている。

通学路には、地域ボランティアの方々が等間隔で立っていて、
子供達が前を通るたび、「おはよう。気をつけて行ってらっしゃい。」と声をかける。
子供達も負けじと「おはようございます!」と返事をする。夜勤明けの耳には響く声量だ。

私も地域ボランティアの方の前を通る。
しかし、挨拶をされる事はない。

夜勤明けで疲弊した顔は強張り、顔色も良くない。こんな大人から子どもを守るために、見守り隊の襷を肩に掛けて立っているのだ。

見守られる側から見張られる側になっている。

小学生として、中学生として、通学路を歩いた記憶はしっかりと残っている。
あの頃の延長線上を生きている。
しかし、時間に無理やり背中を押される形で
大人の境界線を超えてしまった。

通学路の標識は2人の子供のシルエットが描かれている斜方形。
そして、チカチカ眩しいほど黄色い。

そんな色だよね、バナナって。

いつかバナナを食べることが出来るだろうか。
美味しいと思える日が来るだろうか。
私は、バナナを呑み込む瞬間を心待ちにしている。

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