複雑性PTSDを患いながら子どもの不登校と向き合っています
学生時代に、メンタル疾患になり、治療を続けてきました。
数年前に、病院を変えたところ、「複雑性PTSD」という診断をもらいました。
その後、治療方針が自分に合っていたおかげもあり、快方に向かっています。
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今日は、複雑性PTSDを患いながらの子育て、特に、「複雑性PTSDを患いながら、どう不登校児の子育てをしているか」について、書いていきたいと思います。
うちのむすめは、いま小学2年生です。
幼稚園の頃から、登園拒否があり、なんとか幼稚園は通ったものの、小学校に入学してからは、登校拒否がどんどんひどくなっていきました。
小1の頃は、休み休み通い、校内にフリースクールの代わりになるような部屋があったため、そこで過ごすことも多くありました。
小2になり、本格的に学校を嫌がるようになって、週1〜2の欠席。
2学期になってからは、「泣きながら登校」ということも増えたため、いま現在、週1〜2日だけ学校に行っています。
登校する日も、早退しています。
「学校に行かないこと」に対して、わたしは、悪いイメージを持っておらず、「ただ、むすめの学びのスタイルに合わないだけ」と理解しています。
得意、不得意、好き、嫌いの差が激しい子なので、むすめに合うスタイルを模索しています。
なので、「学校に行かなくて落ち込む、鬱っぽくなる」ということはほとんどありません。
ただ、複雑性PTSDを抱えるわたしが、いちばん困難を感じるのは、先生方や心理士さん、夫といった人間関係のやりとりが濃厚になること。
多方面から、「こんな風にされるといいのでは?」とアドバイスがもらえること。
ありがたいことです。
でも、わたしは、混乱してしまうんです。
幼い頃から、存在を否定されてきたわたしにとっては、「よかれと思って発されたアドバイス」が、心を切り裂くナイフに変わります。
「もうほっといて」
「好きにさせて」
「これ以上、不安にさせないで」
と心が悲鳴を上げることがあります。
子どもが学校に通っておらず、方向性が決まっていないあいだは、どうしても、先生方とのやりとりが増えます。
自分がフラッシュバックしている最中に、子どもが学校でトラブルを起こしたときは、それはもう大変。
血をダラダラ流しながら、戦っているようなもんです(泣)。
そんなときに、夫との関係が悪かったりすると、もう生き地獄です。
夫婦間で、育児や教育の方針が合わないのって、心が健康でもストレスになると思うのですが、複雑性PTSDを抱えていると、ますますしんどくなるんですね。
夫の言葉が自分を否定しているように聞こえてくることがある。
そのせいで、フラッシュバックすることも。
「ただ、意見を言っているだけ」
そう思っても、ネガティブな感情が襲ってくる。
頭で理解していたとしても、心と体が拒絶反応を起こすんですね。
むすめが不登校になってからは、むすめの様子がどうこうというよりも、濃密になった人間関係に苦しめられることが多かったですね。
わたしは、一貫して、「むすめに合った環境で、むすめのスタイルに合った学びを」という態度で今後の方針を模索してきました。
それが、学校であってもいい。フリースクールであってもいい。図書館でも、自宅でもいい。
そんな気持ちでやってきたのですが、残念ながら、こういった考え方に賛同してくれる人ばかりではなく、夫は「週5で学校に通うべき」という考え方の人でした。
でも、むすめに聞けば、「学校がしんどい」と言うし、実際、ひとりで登校することもできず、教室の前で泣き出してしまう。
むすめのしんどさを受け止めながら、夫の「学校には行かせるべき」という意見も聞く。
先生方や心理士さんからのアドバイスなども受け入れる。
その上で、自分で決断をする。
この流れは、ものすごく不安でしたし、今でも不安を感じます。
「決断をすること、特に、人と違う決断をする」ということに、異常に恐怖を感じます。
今まで、両親や周りの人の期待に応えてばかりいたから。
特に、子育てに関しては、「自分の決断によって、子どもの人生が大きく変わってしまうのでは?」という不安もあるんですね。
人との関わりのなかで、傷ついてきた過去があるので、「人を信頼する」というのがとても難しい。
付き合いたいときに付き合い、それ以外のときは、ほどよい距離を置いておく。
こんなふうにちょうどいい塩梅でいられるときならいいのですが、そうじゃない「非常事態」のときは、やっぱりきついですね。
子どもの登校拒否の問題に関しては、自分でペース配分を調節できるものではないので、それがきついです。
何度も、フラッシュバックしました。
そのおかげで、フラッシュバックの対応はうまくなりましたが……。
ふと、「わたし、子育てしなかったほうがよかったのかも」と思うことがあります。
でも、けっして「悪い母親」ではないような気がします。
それは、「子どもがどういう言葉や態度で傷つくのか」ということを、自分で体感しているから。
「子育てはしんどい」と思いますが、産んでしまったのだから、育てるしかなく。
それに、子どもが大切じゃないわけじゃない。
ちゃんと愛情はあります。
心身が元気な人でさえ、育児ノイローゼになるくらいですから、複雑性PTSDなんかを患っていたら、そりゃあ大変です。
何の励ましにもならないかもしれませんが、「それでも、子育てはできる」んです。
「苦しい、苦しい」と言いながらも、最低限のことをやって、なんとか乗り切るしかないじゃないでしょうか。
お医者さんの力を借りたり、どうやったらうまくリフレッシュできるかを考えたり、運動習慣を取り入れて、元気を取り戻したり……。
一つひとつの積み重ねだと思います。
メンタルの不調があるにせよ、ないにせよ、「自分ができることをやっていく」に尽きると思います。
それで、うまくできないことがあっても、「こんな母親に育てられてかわいそう」なんて思う必要はないと思うんですね。
子どもにとっては、どんなママでも「大好きなママ」で「幸せになってほしい」と思っているもの。
それは、自分自身が、幼い頃から感じていました。
「自分がつらくても、ママが幸せならいい」と何度も思いました。
だから、子どもが緊急事態のときこそ、ママは自分を大切にして、自分の機嫌をとっておくことが大事かと思います。
そうやって慎重に、慎重に過ごしていても、フラッシュバックが起きてしまうことはあります。
でも、それでいいと思うんです。
何もしないより、ずっといいと思います。
どんなにしんどくても、腐らずに、できることをやっていく。
わたしは、そうやって、少しずつ、自分を育ててきました。
きっと、これは今までのほほんと生きてきた人には備わっていないスキル。
「ないものばかり」を見るのではなく、「自分が得てきたもの」にも目を向けてみるのもいいのかなと思います。
たぶん、こういった問題を乗り越えると、「平凡に生きてきた人」よりも、大きな幸せを感じられるときが来るんじゃないかと思います。
メンタル疾患を抱えながらの子育ては、やっぱり、大変です。
でも、一緒にできることをしていきましょう。
最後までお読みくださり、ありがとうございました。
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