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水族館の魚は幸せだと思いますか?

僕が高校生の時からずっと考えている疑問である「水族館の魚は幸せなのだろうか?」という問い。大学を3年間過ごして4年生になった今その答えが出てきそうなので文字にしてみたいと思います。

その答えは「分からない」と考えます。

インターネットや本でちらほらと手に入れた情報を繋ぎ合わせた結論なので、この答えが必ずしも正しいとは思いません。今の僕に出せる限界の妥当な答えがこれです。

高校生の時の僕は「彼らは不幸せ」だと考えていました。その答えを出した理由は簡単で、彼らには自由がないから。自由こそが最大の幸せだと考えていました。

その結論になった理由としては、僕が大学生になって家の近くに水族館のある環境にあって通算で100回以上は通ってきて、色々な事を考えながら水族館を泳ぐ魚たちを見てきたところにありました。

彼らは幸せそうにも見えるし、不幸せそうにも見えました。何を考えているかも分からないし、いまの環境に満足しているのか不満なのか。むしろそれを考えることさえも無いのか。そんなことを考えながら平日の朝から水族館に通う日々を繰り返してきました。

水族館で暮らす魚たちの幸せとはなんでしょうか。天敵に襲われる心配もなく餌に苦しむこともないという点では彼らは幸せだと言えるでしょう。水族館が無ければ人間は海を泳ぐ魚たちを横から見ることはできません。その価値を生み出してくれるが故に餌を与えてくれ、天敵から身を守ってくれるという利点を生み出してくれます。

逆に不幸せな部分として、彼らには自由がありません。水槽の中に閉じ込められ、彼らの魚生はそこで終えてしまいます(もちろんそうではない可能性もあるでしょう)。

僕は自由という環境が好きです。だからこそ高校生の時の僕は「水族館の魚たちは不幸せ」だと考えたのでしょう。

しかし、それらのメリットデメリットを考えたところでその問いの本質を捉えられたとは思っていません。なぜなら僕は魚ではないから。魚の立場にならなければ幸せか幸せではないかを決めつけることができません。僕はいま日本に住んでいて一人暮らしをしていて、日々の食事に困ることもなければ絶対的な命の危機に侵されている訳でもありません。これは世界的な立場で見ると幸せだと言えると思います。

ただその個人の立場として現状に満足していない自分がいます。客観的な立場に立って考えると幸せかもしれないけど、自分はちっとも幸せと感じません。つまり客観的事実だけでそのものが幸せか幸せでないかを断定するのは正解とは遠いを考えました。

そこで次なるステップとして、「魚はそもそも幸福を感じるのか?」という部分に移りました。魚は幸せだと感じることもないのであれば、この問いは終わりです。僕は優雅に泳ぎ回る彼らを見て癒されてしまえばいいだけの話です。

そこでインターネットで世界各地の研究を見てみました。それらの研究では「魚が幸せを感じるか」の答えは書かれてはいませんが、人間に対して個人を見分けて愛着を見せたり、暇つぶしをしたり、人間のように集団を作りボスのような存在がいたり…なんてこともあるそうです。あんなに目を見開いてひらひらと泳いでるだけに見える魚たちには人間でいう意思のようなものがありそうなのです。

ただそれは実験の結果があるだけで、魚が本当に幸せを感じているかの結論には至りません。ただの反応かもしれませんし、偶然全く異なる感情の結果から意思があると思われてしまっただけかもしれません。

僕は魚たちの泳いでいる姿を見ながら、ふっとユーチューバーの話を思い出しました。ユーチューバーはユーチューブに動画を投稿して、それを閲覧した人に対して広告を見せることで生計を立てているそうです。ただ、ユーチューブもグーグル社が提供するサービスの一つであり、グーグル社の利益獲得の意思の元でガイドラインが変更されることが多々あるみたいです。例えば文字だけのニュース記事を羅列するだけの動画はユーチューブの価値を落とすと考えられたのか広告をつけることができなくなりました。

当然文字だけの動画で高い価値を生み出す人も大勢いますが、その人たちもそのガイドライン変更によって広告を付けられなくなる、つまりは生活をしていくことが難しくなるという人たちも少なからず出てきたようです。そういった人たちは不幸せかもしれません。

このテーマで出てくる魚たちもそういった規制の中で生きています。

もし水族館の経営が成り立たないようであれば彼らの安定した生活は無くなってしまいます。僕のよく行く水族館は市からの多額の助成金をもとに経営が成り立っているようで、僕の住んでいる佐世保という町の水族館という観光資源を代わりに運営しているという関係によって成り立っていますが、市がそれを価値だと感じなくなれば水族館はたちまち規模を落とさざるを得ない、最悪の場合は経営を続けることが困難となるでしょう。

ユーチューバーは人間の一つの生計を立てるための手段としてなので、やろうと思えばアルバイトをして収入を得られれば長期的とは言えなくても短期的には生活をしていくことができるでしょう。しかし、水族館の魚たちは話が違います。生きるための他にない選択肢として水族館があります。彼らの生死は人間によって大幅に決められているといって過言ではないでしょう。

さて、もう一度最初の問いに立ち戻ってみましょう。水族館の魚たちは幸せなのでしょうか。

彼らには選択肢がない。ただその中では安定した生活が少なからず約束されています。そこで僕の立場で考えてみました。生活が約束された環境。ご飯は毎日出てくるし、生きているだけで何かの価値になる生活。どうでしょうか。見世物小屋のような立場ですかね。やってみないことには分かりませんが、僕はそこが幸せだとは感じないと思います。

そこで自分にとっての幸せとはなんだろうかと常々考えるようになりました。僕にとっての幸せとは…というサブテーマに移ります。

僕にとっての幸せは「生きるためのより多くの選択肢を持っている」ということに尽きるのかもしれません。多くの選択肢の中から自分の環境や状況、気分や体調などの要素によって選択できることこそが幸せなのかもしれないと感じます。

そのためには何が必要か。それは多くの人から選択される存在になることだと思います。選択される存在は自分ではなければならないという要素が必要です。僕はこのようなテーマをぼんやりと考えていく中で勝手に自分の幸福論に持ち込み、そして勝手にその幸福論を実践するために何かの手を打とうと考えてきましたが、能力や実績など選択される存在になるために手段は問わず、利害を意識せず、とにかく客観的に見た自分とその中で最もベストだと感じたものを実践するということを続けてきました。

もちろん、実践できたものもあれば実践できないものもありました。失敗もしましたし、飛び上がるほど喜べる成功をしたこともありました。

そんなこんなをしているうちに大学4年生になってしまいました。ぼんやりと考えてきた「水族館の魚は幸せか?」という問いの答えは最終的には「分からない」です。それは魚に聞くしかないですし、魚と会話ができないのであればそれは不可能です。

この問いのアンサーは終了ですが、この問いがあったことで自分自身が抱える様々な問いに対して答えを導き出すための手段を得ることができました。僕は結局、魚たちのことを気にかけていたのではなくて、自分のことが好きだったんだなというのが真のアンサーなのかもしれません。

生きている中で出てくるなんでもない答えの見えない問いって結構ありますよね。その問いって、意外と大事なものかもしれませんね。

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