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妹の初月命日

12月23日。
今日は妹の初月命日でした。

令和4年11月23日夕刻。
妹が静かにこの世を旅立ちました。

写真はひと月早い誕生日プレゼントにと、私が渡した愛猫たちに似たぬいぐるみです。
妹はたいへん喜んで、写真を撮り、枕元に並べていました。
これが私から妹への最後のプレゼントになってしまいました。
妹もこれを受け取った日は多分、1ヶ月後の自分の誕生日は迎えられないと、思い始めていた頃だと思います。

妹は12月9日の誕生日を迎えることなく、47歳の若さで亡くなりました。
妹の携帯の写真アルバムも、このぬいぐるみを撮影したのが最後の写真になりました。

本当に色白で顔が小さくて、すらっと背が高い美人の妹で、一緒に出掛けても未だに30代にしか見えない可愛さでした。

妹は長年病と闘っておりました。
31歳の時に乳がんを患い手術しました。

29歳の時に職場での乳がん検診で、要精密検査になり、異常なしでありながらも、それから毎年の経過観察受診を受けるのが怖くもあったので、もうグレーでも何でも取ってすっきりしてしまおう!となり、手術を受けたのですが、リンパ節転移が2つ見つかり、がん患者となりました。
大きさは1.4センチ。しかしリンパ節転移がありましたので、ステージ2となりました。

腫瘍は取り切れましたが、そこから壮絶ながんとの戦いが始まりました。若いということで再発防止のために、放射線、抗がん剤、ホルモン療法、全部やりました。抗がん剤はたしか2種類やったかと思います。術後の治療は念には念を入れ、トータル9年間行いました。

しかし、寛解後、たった1年で再発。

それから7年間、再発がんと闘いましたが、願いも叶わず余命宣告から、たった3週間で亡くなってしまいました。本当に無念だったと思います。

人生で一番充実するはずの時期に、がんと戦わねばならなかった妹。

好きな人とは結婚できないままお別れしました。その後は一切、恋愛はしていなかったようです。実家暮らしで、父と熟年離婚した母を引き取り、ずっと面倒を見てくれていました。

恋愛、結婚、出産。

30代前半で、これらに希望が持てなかったことは本当に辛かったことと察します。

自分が悲しむのはいい。
しかし、家族をこれ以上悲しませたくない。
そしてこれ以上、悲しむ人を増やしたくない。

いつも自分のことより、他人を第一に思いやる子でした。

もしもがんにならなければ、普通に恋愛して、結婚して、子どもも2人くらいいて、いいお母さんになっていたことと思います。

私と育児や子育ての話をして、お正月には家族と一緒に実家に集まり、皆でわいわい過ごしていたでしょう。

老後は2人で美味しい物でも食べて、一緒に旅行にも行こうね。そんな話もしていました。

しかし、妹は
「還暦までは頑張る!それが無理なら、そうたん(私の次男)の成人式は絶対に見届ける!だから、あと、最低でも6年は頑張るねん」
と言っていたのに、余命宣告を3ヶ月と受けた後、日に日に悪化していき、自分でもまさかたった3週間でこの世を去る事になるとは、思ってもいなかったと思います。

以前から、

あと数年しか治療出来ないかもしれない。
あと2年位かもしれない。
来年はもうないかもしれない。

次第に縮まっていくお別れまでの時間を、妹も覚悟はしていた様子ではありましたが、最後に自分で納得してやりたかった終活が、全く出来ないままの突然の旅立ちになってしまいました。

それからひと月。

私は妹が何をして欲しかったか?を常に考え、できる限りのことをやろうと動いています。

残していくものたちのこと。
愛猫のこと。
母のこと。
叔母のこと。
甥っ子たちのこと。

友達のこと。
同僚のこと。
上司のこと。
お世話になった全ての人たちのこと。

皆に何を伝えたかったかを考えながら、無い知恵を絞り出しつつ、思いつく限りのことをやってあげようと。

それが妹への供養となると考えています。

私の考えたやるべきことが当たりかハズレか、それが正解なのかは解りません。
答え合わせは、私が妹のところに行くまではお預けです。

でも妹に会えた時に
「姉ちゃん、ありがとう!全部やってくれて!」
と言ってもらえるように、頑張りたいです。

まだまだやらないといけないことが沢山ありますが、ひとまずは四十九日法要までに、一区切り付けられるように頑張りたいです。

通夜と葬儀には100名近い方が来て下さいました。その方々とのつながりを、色々記録をたどり、御礼状を書き始めています。

妹の思いを伝えられるように頑張りたいです。

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