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【Clubhouse連動】日印線はなぜすべてボーイング787なのか❓日印線の現状と未来

はじめに

こんばんナマステ💙❤️❤️Kyoskéこと暑寒煮切(あっさむにるぎり)だよっ⭐️

コロナ禍もほぼ終わりに近づき、国際線も世界的に2023年夏ダイヤではかなり復旧することもあるので、今日は先ほどのClubhouse『インドの衝撃(インド大学)』にて喋ったボーイング787についての話をしていきたい。

音声版はこちら(約53分)

これまでもインドの衝撃では何度も航空ネタは話してきたのだけど、エアインディアをはじめとしてエアライン別にフォーカスを当てて話してきた。

今回は視点を少し変えて、航空機そのものの機材について話してみたい。

今までもエアラインの戦略を見ていったときに、機材の話は無視できなかったけれど、あえて機材というところから話してみるとまた違った事実が見えてくると考えている。

さて、現在の日印線はエアインディア🇮🇳のデリー成田線、JAL🇯🇵とANA🇯🇵の羽田デリー線、JALの成田ベンガルール線、ANAの成田ムンバイ線があり、休止中の路線としてエアインディアの関空ムンバイ線(香港、デリー経由)、ANAの成田チェンナイ線、ヴィスタラ🇮🇳のデリー羽田線がある。また、JALとANAの成田デリー線も羽田に事実上は羽田への移管だが、便名は異なっておりあくまで休止中の扱い。

そしてこれらは休止中の路線も含めてすべてボーイング787で運用されているという事実がある。

それは一体なぜなのか。それをこれから見ていきたい。

ボーイング787ができるまで

人類が鳥のように空を飛びたいという渇望は決して新しいものではなく、気球やグライダー、ややずれるがロープウェイといったものの歴史は非常に古い。

ナスカの地上絵🇵🇪がなぜ描かれたのかについて、当時の人が空を飛んだ可能性が傍証されているくらい。

では、現代に繋がる動力を持って飛ぶことができる飛行機の元祖を生み出し、1903年に初飛行したのはアメリカのライト兄弟🇺🇸であることは世界の常識だけれど、初めての飛行で一体どれくらい飛んだのかご存知だろうか。

それは36.5メートルを12秒間。

その日のうちにこれを含めた4回の飛行を行い、4度目は59秒かけて259.6メートルを飛ぶことに成功した。

まだたったの120年前、小さな川すら超えられるかどうか、という距離しか飛べなかった飛行機は、今では太平洋や大西洋を当たり前のように超えるまでになった。

ライト兄弟と初飛行を争ったフランスのルイ=ブレリオ🇫🇷は1909年にフランスのカレーからイングランドのドーヴァーまで36kmを飛び英仏海峡初飛行に成功。

父親の友人だったブレリオに憧れて、飛行機を愛し、エアインディアの前身となるタタ航空を立ち上げ、エアインディアの国営化後はその会長職を長年務めたのがタタ財閥の4代目J.R.D.タタ。

それはそうと、航空機の開発におけるアメリカとフランスを中心にした欧州の戦いはここから始まった。

大西洋の単独無着陸飛行を1927年に実現させたのがアメリカのチャールズ=リンドバーグ🇺🇸というのも世界の常識。

しかし、それが民間旅客機として実現するのはもう少し先のことになる。

ここまでの話で重要なことは、その飛行機は無着陸でどれくらい飛ぶことができるのか。これを航続距離というんだけど、今日はこの言葉、いやこの概念だけでも知ってもらえたらと思う。

ちなみに航続距離という言葉は船はもちろん自動車や鉄道でも使う。近年、EVや水素など新たな動力が注目されるなかで自動車や鉄道の航続距離で既存の石油車に取って代われるかが大きな指標となっている。

さて、ライト兄弟にはじまり1950年代まではプロペラ機が主流だったけれど、第二次世界大戦で戦闘機として使われ始めたジェット機の民間旅客機としての開発が欧米やソ連で検討され始めた。

1950年代前半から中頃に欧州やソ連のジェット旅客機が飛び始めるけれど、当時はまだ機能的にも圧倒的ではなく安全性も疑問視されており、プロペラ機の市場を奪うには至らなかった。

また航続距離の短いプロペラ機は大西洋や太平洋を渡る客船とは棲み分けされていた。

当時アメリカの旅客機はダグラス社やロッキード社が強く、ボーイング社は戦闘機の会社としては知られていても旅客機部門は非常に弱かった。

しかし、爆撃機を応用してジェット旅客機を造ることを決意、パンナムことパンアメリカン航空🇺🇸は英国デハビラント社🇬🇧のジェット機コメットを発注していたけれども、コメットの事故が続いていたこともあり新興勢力であるボーイング社にも賭けた。

こうして1958年に飛び始めたのがボーイング707。リンドバーグをアドヴァイザーとし、広告代理店の発案で当初700としていたネーミングをインパクトのあるものにした。

ジェットエンジンを4発装備し、9,300kmもの航続距離を誇り、現在のジェット機の巡航速度とほぼ変わらないマッハ0.8の俊足で、大西洋どころか太平洋の無着陸飛行を可能にすることで、当時既に欧米だけで世界が回らなくなっていたなかでサンフランシスコから経済成長真っ只中の東京をダイレクトに結んだ。

ちなみにエアインディアもボーイング707を早期に導入したエアライン。

ボーイング707の大ヒットによってボーイング社は旅客機市場の主力企業に躍り出ることになった。

競合のダグラス社はボーイング707の計画を知り、当初欧州のジェット機と対抗するスペックで考えていた初のジェット機DC-8をボーイング707の競合機へと昇華させることになった。

ボーイング707に遅れること1年、1959年にDC-8が登場、当時日本で唯一国際線を運航し、かつボーイング社とのコネクションがなかったJALはこちらを導入した。

ボーイング707とダグラスDC-8は、ジェット機のプロペラ機に対する優位、ジェット機開発において欧州に対するアメリカの圧倒的な優位を確立させ、

さらに大西洋や太平洋を横断していた大型客船は姿を消すことになる。

しかし、船上の体験というのは他に替え難いものであり(沈没するまでのタイタニック号はめちゃ楽しそうだよね)、それに特化させたクルーズ船という新しいマーケットができることになる。

その後ボーイングは707で培った技術を活かして短距離用かつ小型のボーイング727、ボーイング737を造り、ジェット機界の有力なプレイヤーになっていく。

航続距離を伸ばしたければ、当然燃料をたくさん積めばいい。

ということは機材も大きなものにする必要がある。逆にいえばそこまでの航続距離を必要としなければ、あまり燃料を積まなくていいから、機材は小さくでき、需要の小さな路線に充当できる。

といってもボーイング707よりボーイング737の方が型式によっては席数多かったりするんだけどね。

そんななか1960年代半ば、パンナムは増え続ける航空需要を見据えて、より大型の飛行機が欲しいとボーイング社に要求。これまでにない巨大な機材、ボーイング747の開発を始める。

これまでが百何十席ってとこなのが、2階建てで300席とか400席とかだからね💦

当時のボーイングでは超音速旅客機の開発が最大のミッションで、ボーイング747はそれまでのつなぎと考えられており、エリート社員たちはみな超音速旅客機のプロジェクトに参加していた。

しかしながら超音速旅客機が飛び始めたあとはボーイング747を貨物輸送に使えばいい、ということでそれを見越した設計を施したことは結果的に大正解になった。

1970年のパンナムを皮切りにボーイング747が飛び始めると、当初こそあまりのキャパシティの大きさに空席が目立ったけれど、その分だけファーストクラスを広くできて富裕層からの売り上げを稼げた。

エコノミークラスは空席を埋めるためにどんどん値下がりして、空の旅が一気に大衆化した。

旅行会社が団体旅行用に座席を安く仕入れたことも大きく、この時代は個人で飛行機に乗るよりツアーに参加する方が安かった。

そこで、留学中の娘に会いたい、といった理由で海外の都市でツアーから途中離脱を申し出るツアー参加者が出てきた。

多分、最初は添乗員と無茶苦茶もめたんだと思う。なんかあれば責任が添乗員にいくわけでしょ。

でも、結局は旅行会社の方が柔軟になり、ツアーに参加しなかった間の費用は一切返さないし、途中でトラブルに巻き込まれても旅行会社は一切の責任を負わないし、帰りの飛行機に間に合わなくても知らないよ、っていう紙に一筆書きさえすれば、ツアーを簡単に離脱できるようになった。

そして個人旅行のニーズが高まっていくにつれて、ツアー用の航空座席をバラ売りすることが一般的になっていく。これが世にいう格安航空券。

旅行・航空業界ではInclusive Tour Fareを略してIT運賃とか、個人向けだとIndividual Inclusive Tour Faresを略してIITといったりする。インド工科大学じゃないのよ。従来の団体売りはGIT(Group Inclusive Tour Fares)ね。

旅行業界におけるGIT時代の申し子はジャルパック、IIT時代の申し子はH.I.S.ということになるよね。

さて、パンナムは機材の大きさを求めたけれど、機材が大きくなればそれだけ燃料をたくさん積めるので航続距離をさらに伸ばせる。そこで形式によっては1万km以上の航続距離を誇るようになり、東京とNYなどのアメリカ東海岸や欧州に直接アクセスできるようになる。東京と言ってももう成田なんだけどさ、この頃になると。

ボーイング747の性能に呼応するかのようにソ連の領空を飛べるようになったことも大きい。ソ連は西側諸国に対して意地を張るよりも領空通航料を取った方がオイシイと考えるようになった。

ボーイング747は貨物でも大人気になり、貨客ともに大きな需要の創出に成功して世界を変えた。それに対して超音速旅客機はボーイング社としては実現できず、英仏両国の意地で実現させたコンコルドも結局は採算ベースに乗ることができなかったわけで😭

さて、ボーイング社をはじめ、マグドネルダグラス(先述のダグラス社がマグドネル社と合併)、ロッキード社といったアメリカ勢に押されっぱなしだった欧州では、それぞれの国がバラバラにやってちゃダメということに気がついてフランスとドイツによる連合としてエアバス社を立ち上げ、他の欧州諸国も加わるようになった。

諸国寄らば文殊の知恵、というかエアバス社が最初に開発したエアバス300が当たり、アメリカでも売れ始め、ボーイング社の強力なライバルになっていく。

そしてロングセラーになったボーイング747への競合機として、それよりもややスリムで航続距離は変わらないというかむしろ優れているエアバス340が1993年に登場する。

なぜスリムで燃料をたくさん積めないに航続距離で対抗できるのかというと、技術力が高く燃費を抑えられたから。

燃料をあまり食わずに飛べるなら、当然長く飛べることになる。

ただ、その頃にはボーイング747の大きさが必要、というエアラインも多かったため需要は棲み分けされた。

そしてエアバス340のへの対抗策としてボーイング社はボーイング777を1995年から飛ばし始める。

ボーイング747やエアバス340がエンジンを4発積んでいたのに対して、ボーイング777は2発しか積んでおらず燃費が格段に違い、それでいて航続距離では引けを取らず、輸送力もボーイング747よりやや小ぶりでエアバス340を意識したものとなった。

なぜ今まで4発のエンジンを積んでいたのに、それが2発になったのだろう。

理由は2つある。

1つは大きな機体を飛ばすにはそれなりのパワーが要求されたこと。昔のエンジンはまだまだ非力だった。

そしてそれ以上に大きな理由がExtended-range Twin-engine Operational Performance Standards、略してETOPSといってエンジンが2発の双発機が洋上飛行する時は片方のエンジンが故障しても安全に陸地に辿り着けるよう飛行時間に制限を課している。

そのため長距離の洋上飛行をするときには3発、4発のエンジン搭載が必要だった。

3発機で日本人に有名なのはANAが使っていたロッキード社のトライスターで、ロッキード社がANAに売りつけるために暗躍したのが田中角栄といわれる。そしてこの汚職によってロッキード社は航空機市場から退出することになる。

エンジンの性能が上がったこともあり、ETOPSが徐々に緩和されていき、エンジン2発のボーイング777を長距離路線に飛ばすことが可能になったというわけ。

ボーイング747だって何もしなかったわけじゃなく、新しいエンジンで燃費を抑えたボーイング747-8を世に送り出したりもしたけれど、結局はいくら少食だって4人きょうだいの食べる量が2人きょうだいより少ないわけがない。

現在、ボーイング777の機体を可能な限り伸ばしてボーイング747に匹敵する輸送力を持つようにしたボーイング777Xシリーズの開発を進めており2025年に飛び始める予定。

これによってボーイング747シリーズとの置き換えをしていく予定で、ボーイング747が生産終了になったことは大きなニュースになった。

さて、21世紀の航空需要を見据えたうえでボーイング社とエアバス社は異なる未来予想図を持っていた。

エアバス社は各大陸ごとに1~2箇所のスーパーハブ空港があり、スーパーハブ空港同士を超巨大機でつなぎ、そこからフィーダー機を飛ばしていく未来を思い描いていた。

これによって乗り換えは発生するにしても、世界のどこからどこへも飛ぶことができるよね。

こうした時代を見据えて、仁川、香港、バンコクのスワンナプーム、クアラルンプール、シンガポールのチャンギといった巨大な空港ができたのに対して、日本はこの流れに乗ることができなかった。

そしてボーイング747を凌駕し、500席以上の席数を誇るエアバス380が2005年に登場した。

これに対してボーイング社は、世界中の空港をきめ細かく直行便でつないだ方が便利だよね、という真逆の発想ポイントトゥポイントを持ち、200席台の中型機なのに大型機と同様に1万km以上の航続距離を誇る機材を開発し始める。

これができたら需要の問題で今までに繋げなかった都市同士に直行便が生まれる。

他国に比べて海外への移住者が少ないためどうしても出国率が低くなってしまうことや、巨大な空港を建設できなかった日本にとってはまさに理想の航空機。

ANAが最初の発注者となり、機材の35%は三菱重工業など日系企業による製造で準国産機とも呼ばれたその航空機はボーイング787ドリームライナーと名付けられた。

まさにボーイング社と日本の夢を乗せた航空機なんだよね。

同サイズのボーイング767より圧倒的に燃費がよくて短距離路線の置き換えにも使われたけど、真骨頂はやはりこれまでになかった長距離路線の開設。

2011年に導入されると、翌年には成田フランクフルト線をはじめ積極的な新路線開設がはじまり、ライバルのJALもANAがつくった機材ということで毛嫌いすることはなくやはり積極的な新路線開設が行われるようになる。

もちろん海外の航空会社もみんなボーイング787の虜になり、世界中に今までになかった長距離路線が登場するようになる。短距離中心のLCCには真似のしづらい新境地を切り開き、フルサーヴィスキャリアの面目躍如にも繋がる。

これに対してエアバス380はエミレーツ航空のような熱狂的なファンもいたものの、結局は採算ベースに乗せることができなかった。なぜなら、あまりに巨大過ぎて需要の問題もさることながら空港施設の改修が必要になり、乗り入れられる空港自体が限られた。

ボーイング747を開発した当時、徹底的にこだわられたこととして、滑走路など既存の空港施設をできるだけそのまま使えるようにするということだった。エアバス社はこのあたりを完全に見誤ったといえる。

しかしながらボーイング787の競合機種も用意していて2015年からエアバス350XWBが飛び始めた。

やっぱりANAの象徴であるボーイング787を使うのがシャクなのか、JALが積極的にエアバス350を買っている。

現在の日印関係はボーイング787のたまもの

ここで日印線について航空機という観点から見ていくと、1955年にはエアインディアがボンベイ(現ムンバイ)羽田線を飛ばし始めたけれど、このときはカルカッタ(現コルカタ)、バンコク、香港を経由している。

このときの機材はロッキード社のコンステレーションというプロペラ機で、航続距離は5600km。
ボンベイから6700km離れた羽田には届かないし、そこまでの需要も見込めなかった。それでも戦後から復興し経済成長を進めていた日本の活力にインドは賭けた。

ちなみに当時のカルカッタは位置的に日本寄りというだけでなく、インド経済の中心だったけれど徐々にボンベイに追い抜かれていくようになる。東ベンガルがパキスタン(現バングラデシュ)になってしまったことで、労働者を集めづらくなったんだよね。

デリーは政治の中心ではあっても経済の中心とはいえなかった。だけど、JALは1965年に羽田から南回りロンドン線の経由地にデリーを選び、その後1980年代まではデリーやボンベイを経由する路線を持っていた。なお1972年にデリーで墜落事故を起こしている。

しかしボーイング747に代表される長距離飛行が可能になり、ソ連上空ルートも一般化すると、JALはしばらくインドに目もくれなくなる。

社会主義政策を放棄した1990年代からデリーが経済面でも成長し始め、ムンバイ拠点だったエアインディアがデリー拠点だったインディアン航空と合併したこともあり、日印線もデリー経由に変わっていく。

インドの経済成長が少しずつ見えてきた1996年にANAがバンコク経由の成田デリー線をボーイング767、JALが関空デリー線をマグドネルダグラスのMD-11で開設。JALは成田発着に振り替わり、ANAもボーイング787を導入した2012年から直行便化する。また、JALもボーイング787となる。

そしてANAはムンバイとチェンナイ、JALはベンガルールと成田を結び、デリー線に関しては両社ともに2020年3月から羽田発着となった。

エアインディアも積極的にボーイング787を導入した会社で、成田線についてはデリーからの直行便となり、デリーと香港を経由したムンバイ関空線もボーイング787になった。関空に初めてボーイング787を乗り入れさせたエアラインでもある。2019年に関空からは撤退してしまうのだけど。

コロナ真っ只中の2021年に一瞬だけデリー羽田線を就航させたヴィスタラも含めて、近年の日印線はボーイング787のみが飛んでいる。

理由としては6,000km前後の飛行距離自体は既存の中型機でも飛べないわけではないけれど、やはりボーイング787の方が燃費が圧倒的にいい。

大型機を飛ばすほどの需要と距離ではないけれど、中型機を飛ばすにはちょっと心許ない距離というのが日印間だっただけに、ボーイング787のスペックがある程度フィットしている。

今の日印関係はボーイング787が支えていると言っていい状況なの。

まあJALは大好きなエアバス350に置き換えるかもだけどね。

日印両国はもっと近づけられるか

さて、国際線の航空ダイヤは3月末と10月末に改正される。

この理由としては欧米のサマータイムや偏西風の速度によるもの。羽田からデリーでいうと夏ダイヤの方が1時間くらい速く着く。

今月改正される2023年夏ダイヤはまさにコロナ禍の終わりを告げるもので、休止や減便になっていた便が全体的に戻ってきているけれど、デリー線こそ3社とも元に戻っているものの、コロナ前はデイリー運航だったムンバイ線とベンガルール線は減便されたまま(2020年3月に就航したベンガルール線は計画段階のみ)、チェンナイ線は復活されず。

これらの復旧の噂はあったし、特にベンガルール線はデイリーに戻るという話だっただけに残念ではある。

ANAは国際線をコロナ前の7割に戻す、という方針らしく、デリーが7割側、それ以外は3割側というところ。なお、全体的に復旧は羽田発着が中心になっていて成田発着は歩みが鈍い。

まあ、様子を見ながら夏ダイヤのうちに運航頻度を上げる可能性は充分あるけどね。

外航はコロナ禍の間に乗務員をリストラしてしまい戻すにも戻せないのに対し、JALとANAはある程度雇用を守ったので、需要さえあれば供給を戻しやすい。

特に開設した瞬間コロナ禍に突入したベンガルール線は本当にどれだけの需要があるのか手探りだし、チェンナイ線はそもそもが週3だからね。慎重になるのは仕方ない。

そもそもボーイング787でも200席台で、ある程度の需要がないと飛ばしづらい。もっと小さな機材を飛ばせたら状況も変わってくるのではないか。

そしてそれは実現可能。

ボーイング737MAXやエアバス320neoといった近年の小型機は200席未満ながら6500km以上の航続距離を有しているため、6700km離れた成田からムンバイやベンガルールであっても直行便を飛ばすことができる。

これによって成田からムンバイ、ベンガルール線の増便、成田チェンナイ線の復活、関空デリー線の直行便として復活、さらには成田からコルカタやハイデラバード、デリーからセントレアや福岡といった路線の開設も夢じゃない。

エアインディアがボーイングとエアバスから空前絶後の470機を購入することが話題になったけれど、このなかにも新鋭小型機が含まれている。

また、ボーイング737MAXを世界で一番使っているのはインドのLCCアカサだし、エアバス320neoもインド最大のLCCインディゴが世界最大の保有者。それらの日本乗り入れだって決して夢物語じゃない。成田の第3ターミナルや関空の第2ターミナルがインド人だらけになる可能性は大いにある。

ボーイング787は航続距離も輸送力も日印線としてはオーヴァースペックであるのは否めない。また機材が高価ゆえにLCCが就航しにくく、価格も高止まり。

今までは国内線や短距離国際線にしか飛んでいなかった小型機こそ日印関係をより濃密にするものなんじゃないかな。

おわりに

ボーイング社が何故アメリカのなかで生き残れたのかっていうと、707、747、777、787といった機材は今までにない機材で世界を変えてきたからなんだなと。

逆に機材に注目すると、世界がどう変わるのかが見えてくるので、それに対してどう動けばいいのかわかってくる。

例えば新鋭小型機によって日印線が激増したら、どんな動きが取るべきなのか。

航空機は今ある世界を飛ぶだけでなく、時代を飛び越える力がある。

それがコロナをグローバルパンデミックにまで拡げてしまったともいえるけれど、基本的にはいつだってそれによって拡がる未来にはわくわくするよね。

もっと長距離を飛べる小型機、旅客用ティルトローター、超音速旅客機、空飛ぶタクシー、宇宙経由の飛行機、あるいはクルーズ用巨大飛行機、どれが実現するかな。

ボーイング社や787と737MAXの間としてボーイング797を開発する構想もある。これも日印線に向いているかもしれない。

それじゃあバイバイナマステ💙❤️❤️暑寒煮切でしたっ✨


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