【京都バス崩壊を考える❶】京都の人はなぜバスに乗るのか
こんばんナマステ💚Kyoskéこと暑寒煮切(あっさむにるぎり)だよっ⭐️
一昨日京大の行き帰りに、時間的にも余裕があったので市バスに乗ったらやっぱりひでぇなぁと😱
京大といっても出町柳駅に近い方ならいいけど、そうではなく歩いたら20分くらいかかるところだった。
出発地も京阪の駅まで少し歩くところだったので、これだったらバスの方がいいなと思って。
行きは乗った時は一般的な範囲での満員で、四条河原町でガラガラになり座れたのでそんなに苦にはならなかった。
けれど帰りは銀閣寺道でもう満員だったんだろーね。
京大の時点でイナバの物置みたいな状態で、出町柳からはもう地獄絵図だった。
こーなるとバス停に停まる度に降りる人がなかなか脱出できない状況で、降りるのにものすごい時間を要する。
そしてバスが遅れて停車時間が延びるほど、あとから人が乗ってきてますます鮨詰めになる。
阪急に乗るので四条河原町で降りたけど、そこで見たのは芥川龍之介の蜘蛛の糸のようにやってきたバスに群がる人達だった。
こんなんだったら横着せず、京阪電車で祇園四条まで行くべきだった。
なんならキャンパスから元田中なら近かったので、ひと駅だけでも叡電に乗ればよかった。
常日頃、他人には京都でバスなんか乗るな、って言ってるのに自分がそれをやってしまったことが情けない😵
それでも京都の人に聞くといつも「京都の移動はバスが一番」「京都の人は地下鉄なんか乗らへん」って言うんだよ。
今よりもずーっと観光客の少なかった頃から、京都のバスには乗る度に頭来てるのに、なんで❓
これには歴史的な背景がある。
京都のベースはもちろん平安京だけれど、その姿はほとんど留めていない。
右京が廃れ左京だけが残り、鴨川を越えた白川、そして北へ南へ伸長し、北の上京(かみぎょう)と南の下京(しもぎょう)に分断される状態が続いた。
応仁の乱で両京は荒廃するも、信長や秀吉が町衆を保護し、秀吉は両京を土塁で囲んだ(御土居)。
洛中と洛外を分断する考え方は実はこのときに生まれたけれど、上京と下京は御土居のなかで融和することなく明治になっても分断されていて上京区と下京区が成立した。(当時の区制は今でいう市制)
明治に入り、日本で最初に汽車ではなく電車が走ったのは東京でも大阪でもなく京都であり、
路面電車を張り巡らせるかたちで上京と下京が融合して今日の「京都」になった。
京都自体が路面電車のために形成された街で、人々はくまなく張り巡らされたトラムに乗って生活した。
このマインドは今でもまったく変わっていない。
京都は戦災を受けなかったし、碁盤の目に広がった街を大きく変える要素もなかった。したがってマインドも動かない。
だからどんなに時間がかかって、どんなに遅れたって、京都のなかならどこからどこへでも行けるバスが一番だと思っている。
逆にいえば京都の人は歩き回れる範囲で生活を完結させない。「洛内」は基本的に庭であって、時間がかかっても遠くまで用を足しに行く。
駅同士の距離が離れているし、十字型にしか路線がない地下鉄は「洛外」の乗り物であって、通勤通学を除けば新幹線で東京に行くくらいしか使わない。
東京や大阪と違って駅のないところにいきなり繁華街や商店街が現れるのが京都の特徴で、それは路面電車を受け継いだバスのネットワークがあるがゆえのこと。
京都でいうアクセスが便利というのは、バス停にどれだけ近くて、そしてそのバス停がどれだけの運転系統が集まっているかを指す。
鉄道がないからバスが頻繁に走る、みたいな東京や大阪の発想を持ち込む限り、京都におけるバスの状況は永遠に理解できない。
京都以外で東京や大阪以上にバスが発達している都市として福岡が挙げられるけど、あちらは路線バスに区間快速とか快速急行とかあって、電車の代わりという感じなんだよね。
だから福岡では地下鉄七隈線をもっと整備しよう、という話にもなるけど、京都は一応六地蔵や太秦天神川まで地下鉄を延ばしたけど、あれは「洛外」だしねぇ。
そんな京都の人もコロナ前の数年間、そしてここ最近のバスの異常な混雑には辟易としており、観光客の運賃を値上げすべきというような意見が市政から出ている。
それは可能なのか。そして根本的な解決になるのか。
これまでも京都のバス問題については何回も書いてきてるけど、今回は日にちをかけてこの問題とその解決策を考えていきたい。
だって久々に自分が喰らって泣きを見たからね❗️
それじゃあバイバイナマステ💚暑寒煮切でしたっ✨
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