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ちばにうの10年間は日本路線バス史の縮図だよっ

こんばんなまらステ🩵Kyoskéこと厚沢部煮切(あっさぶにるぎり)だべさっ✨

10年間、その名の通り千葉ニュータウンを走ってきた鎌ヶ谷観光バスの生活バスちばにうが間もなく息を引き取ろうとしている。

ちばにうが歩んできた軌跡を見るとこの10年間の日本における路線バスの立ち位置がよーくわかるので、ここで見ていきたいと思う。

ちなみに鎌ヶ谷観光バスは鎌ヶ谷市のコミュニティバスききょう号の運行受託もしており、そちらはまだ続くから路線バス運行から完全に撤退したとは言い難い。

しかし、ちぼにうは鎌ヶ谷観光バス自身が営業して乗客から収入を得ているのに対して、ききょう号は鎌ヶ谷市から得ているのだから、事業という意味ではまったくの別物であり、路線バス事業からの撤退という報道で間違っちゃいない。

ちばにうの軌跡についてはNPO法人交通まちづくり戦略会議というところが詳しくまとめてくれているので、これを参考にして書いていくことにする。
http://www.yasashii-transport.net/11ueda/presen/P3-3.pdf

大前提から書くと、下総台地のうち鉄道が通らなかったいまの白井市、印西市、それに船橋市の北部といったエリアは東京に近いのに、戦前は超人口密度が低かった。

今思えばここに国際空港を造ったら、ロンドン都心からヒースロー空港までと同じくらいの距離で東京都心と結ばれたのにな、と。

なんにせよここに目をつけて千葉ニュータウンを造成することにした。強引に山を切り崩した多摩ニュータウンや港北ニュータウンより遥かにいい立地条件だと思ったんだけどね。

しかし千葉ニュータウンはその2つよりも冴えない結果になってしまう。それは千葉ニュータウンを走る北総線、昔は北総・公団線といったけれども、その運賃がおかしなくらい高額だったから。

その理由は、今では当たり前の私鉄であっても公費で鉄道を建設するという考え方が当時はなく、戦後のモーターリゼーションや土地私有の社会のなかで、当時の北総開発鉄道が自ら土地を買うところから始めなければいけなかった。

そのため莫大な負債を抱えたところからスタート、負債を返すために超高額運賃を設定したところ、千葉ニュータウンへの入居も予定通り進まず利益が出ないから負債が減っていかないという悪循環が繰り返された。

公設民営って北総線の反省から定着した考え方だからね。戦前みたいにとりあえず人の家や畑以外は簡単にレールを敷けた時代とは違うのよ。

千葉ニュータウンは家が安いから、電車が高くても相殺されるとかいう話もあったけど、それは通勤手当が出る人、大概は夫の話。

家に残された妻は電車賃が高過ぎて買い物に出れないし、ニュータウンも成熟してくればリタイアした高齢者にとっても死活問題になっていった。

そこで北総線の高額運賃に困り果てた住民有志が団結して、中古車販売から始まった鎌ヶ谷の小さなバス会社である鎌ヶ谷観光バスと掛け合って、2014年6月に生活バスを名乗るちばにうがスタートした。ちょっと生活協同組合的な空気があるよね。

最初は千葉ニュータウン中央駅と新鎌ヶ谷駅の間を北総線の駅のみ停車する直行便だけが走った。

運賃を北総線と比較したら露骨に安くして、新鎌ヶ谷で新京成や東武の電車に乗り換えてもらおうということ。

3年経った2017年7月には直行便とは別に細かく途中のバス停を置いた北環状線、それに千葉ニュータウン中央駅から印西牧の原駅の間で細かくバス停を置く牧の原線がスタートした。

ところが牧の原線は新鎌ヶ谷方面には行かないので、乗客は全然増えなかった。

それに対して北環状線は好評で、だんだんと直角便が減って北環状線が増えるようになる。

いくら安いって言っても、1時間に1本だけで鉄道より遥かに遅いし、定時性も低いとあれば、段々と飽きられてくる。

しかし細かく停車していけば、家の近くから新鎌ヶ谷まで連れてってくれて、乗り換えの手間や運賃もかからないから人気が出始めるわけよ。

細かく、自由にルートを組むということで、ここにバスの特性がある。鉄道の真似したってうまくはいかないんだよね。

そして2010年代においては、当時から人が足りないとは言われていたものの、まだまだ無尽蔵に増発ができた時代だった。

ところがパンデミックに入ると、ちばにう自体の乗客減もあったけれども、それ以上に観光需要が消えて本業の貸切バスが立ち行かなくなってしまい、貸切バスの収益で路線バスを支えるビジネスモデルが崩壊する。

ということで、ちぼにうを最初に要望した市民運動がクラウドファンディングで運行継続させようとする。

クラファン自体は目標額の2割しか集まらず大失敗ではあったものの、それ以外にも寄付なりなんなりでお金を集めて、ちばにうを守った。

今思えば何だったんだろーって運動なんだけども。

パンデミック真っ只中の2020年7月に直行便と牧の原線は大幅に減便されたけれども、北環状線はむしろ平日に大増発を果たす。また、時期は異なるけれども当初は乗り入れていなかった西白井駅や小室駅に乗り入れるようになり、直行便の代替機能を持ち始める。

2022年10月、北総線は15.4%という大幅な運賃値下げを断行。

計画より大分時間はかかったけれど、千葉ニュータウンの入居が進んだことに加えて、とくに2010年7月に成田スカイアクセス線が開通して路線自体が袋小路でなくなったことや、地盤が頑丈なことならデータセンターや物流基地が集まり始めて今後も安定的な利用が見込まれることからの経営判断といえる。

一方でちばにうは当初より値上げしており、価格差はかなり小さくなった。兎に角安く移動する選択肢がほしい、という当初の目的はこれで潰えてしまう。

それでも北環状線は好調だったため、ちばにうは新たな使命を帯びたように思えた。

しかし、パンデミックの終わりが見えてきた2023年3月、ちばにうは新たなフェーズに突入する。

ドライヴァー不足と燃料高騰を理由に、直行便と牧の原線を運休、北環状線も大幅に減便してしまう。厳密にいうと平日と土日祝日で運行本数に差があったのが、本数の少ない土日祝日ダイヤに移行した。

役目を失った直行便の運休は当然だし、牧の原線は元から利用が少なかったからやむを得ない面はある。だけど、むしろ利用されていた北環状線の減便は衝撃的。

これは2024年問題と言われるバスドライヴァーの残業規制強化による人員不足というだけでなく、鎌ヶ谷観光バスの経営判断として限られた人員リソースを儲かる貸切バスに集中させたいというもの。

大手や老舗のバス会社だと、減便や統廃合はしてもなんとか地域の足を守りたい、ということでやりくりしているけれども、中小・新興のバス会社にそんな余裕はない。

大手や老舗はパンデミックとバスドライヴァー不足は別の事象であるということを打ち出しており単純にバスドライヴァー不足への対応策を練っているけれど、中小・新興にとってはパンデミックで狂ってしまったキャッシュフローの正常化をバスドライヴァー不足のなかでやらなければいけないという二重苦が発生している。

そんななかで同年10月、北環状線とほぼ同じルートを走るライバルであり、このような状況ではむしろ依存したかったはずのちばレインボーバス北総循環線が先に1日1往復へ大幅減便してしまう。

ちばレインボーバスは京成グループであり、これまでは身内である北総線の手足となって動いていたけれど、ドライヴァー不足でそーはいかなくなり、それならちばにうに任せられる区間は任せてしまおうということでの実質撤退。

これは鎌ヶ谷観光バスにとってはしてやられたと。それをやりたいのはウチの方だったのにと。

そこで先月、北環状線を1往復に減らしてちばレインボーバスに追随、さらに今月撤退を表明した。

減便と撤退は手続きの難易度が異なるため、このようにタイミングがズレるのよ。そこで1往復化が常套手段になる。カップル解消の前段階として、会ったり連絡することを控えた距離を置くようなもの。

ただし、同じ実質撤退に見えても鎌ヶ谷観光バスとちばレインボーバスでは考え方が異なる。

鎌ヶ谷観光バスは露骨にちばにうをもうやめたい。もうそれだけ。

これに対してちばレインボーバスは情勢が変われば再開もありうるということで、路線免許を維持するために走らせている。このような免許維持路線と呼ばれる路線バスは全国に多数存在する。

ちばにう撤退後は白井市や印西市が地域の足を守るためにコミュニティバスを走らせるか、ちばレインボーバスの増便に大幅な助成をするかということになるのだろう。両市のコミュニティバス自体がちばレインボーバスに委託している。白井は船橋新京成バスにも委託しているけれど、そこも京成の身内。

だからちばレインボーバス、というか京成グループとしてはちばにうが出て行ったあとは行政資金を頼るというシナリオができていると思われる。

その点、鎌ヶ谷観光バスはお膝元の鎌ヶ谷市では前述の通りコミュニティバスききょう号を、ちばレインボーバス、船橋新京成バスとともに受託していて関係ができているけれども、白井市や印西市とはそのような関係は築いてこなかったのか築けなかったのかはわからないけど、兎に角関係が薄い。

白井市や印西市にしてみたら市民が自発的にちばにうを始めたのであって市政とは無関係という態度なのかな。だから出て行くといっても冷淡であり引き止めようとはしない。

鎌ヶ谷観光バスは死なず、千葉ニュータウンから消え去るのみ、なんだな。

ちばにうが走った10年間は日本の路線バスの歴史そのものだと思う。

恐らく大手・老舗のバス会社も遠くないうちに露骨な高速バス、貸切バスへのシフトを始め、路線バスのほとんどはコミュニティバスか行政の全面助成による実質公営の道を辿ることになる。

こうした流れのなかでちばにうを起こし、支えてきた市民運動とは結局なんだったのかという徒労感もあるよね。

市民運動は北総線のボッタクリと動かない行政へのアンチテーゼから生まれたもの。だけどこれからはアンチ京成、アンチ行政ではなく、より良い交通体系をつくるためにそれらと協調していかなければいけないのだろう。

そのように頭をシフトさせれるのかどうか。

ちばにうの10年間の軌跡をアーカイヴしておくことは、これからの交通体系を模索していくためにも大きな意義がある。

それじゃあバイバイなまらステ🩵厚沢部煮切でしたっ✨




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