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【Clubhouse連動】さよならインド政府観光局

はじめに

こんばんナマステ💛Kyoskéこと暑寒煮切(あっさむにるぎり)だよっ⭐️

少なくとも日本語ではインターネット検索に全然引っかからない話なんだけど、3月末で東京銀座にあるインド政府観光局東京事務所が閉鎖になるのをご存知だろうか。

今日はその話をClubhouse『インドの衝撃(インド大学)』の方でもしてきたんだけど、

本当はもっとインド政府観光局について詳しい話を色々書きたかったところが後述する理由で書けなくなってしまった😢

したがって当たり障りのない話に終始してしまう旨を予めお詫びしておきたい。

いや、ホント信じられない理由で、遺憾としか言いようがない。

とりあえず始めていこうぜ❗️

インド政府観光局とはどんな組織なのか

まず政府観光局というのは、その国の観光情報を対外向けに広報する機関で、基本的には外国の首都や主要都市に置かれることが多い。

大抵は観光を担当する官庁の直営だけれど、民間企業が当該国の政府から受託されているようなケースもある。またアメリカのような連邦制の国の場合、州毎にも政府観光局がある。

日本の場合は独立行政法人国際観光振興機構という組織が実質的に政府観光局となっていて、一般的にはJNTOと呼ばれる。

独立行政法人ということは元々は特殊法人で、1959年に設立された日本観光協会が前身で、1964年に国際観光振興会へ改組、2003年にこれを一度解散させたうえでJNTOが生まれた。

2003年といえば観光立国宣言の年で、まさにその主軸を担ってきたのがJNTO。

特殊法人の頃は観光関係の情報収集とかそんなのがメインで、そんなに宣伝もしてこなかったのが、JNTOになってから積極的に海外に対して日本の観光を売るようになった。

2017年にはデリーにも事務所ができたしね。

独立行政法人自体は行政改革だけれど、観光政策の改革とも密接に関わったのだといえる。

観光庁が設立されるのはその5年後なので、それまでの観光行政を先取りしたといえるわけ。

インドの場合、1967年に観光・民間航空省が設立されるけれど、日本におけるインド政府観光局は先立つこと1964年に設立されたんだという。

分離独立の翌年である1948年には観光産業の重要性が認識され、以後順調に伸ばしてきたものの、中国との国境紛争の結果1961年は観光客が減少してしまい、危機感が生まれた。

その時、高度経済成長を進めてアジアで最初のオリンピックを開催するに到る日本に可能性を見出したのだろう。

また、ブッダガヤやサールナートなどの仏跡に日本人が巡礼し出した頃であり、欧米からの旅行者とは違った行動パターンに魅力を感じたのだろうと思う。

これはインドの観光行政と密接な関係のあるエアインディアが1955年に羽田空港に乗り入れたことと、インド独立の中心メンバーであったアンベードカルが仏教復興運動を1950年に始めたことと繋がる。

アンベードカルはカーストの撤廃を願うあまり、仏教に目を付けて不可触民たちを率いて改修した人。

少なくとも20世紀後半におけるインドの仏教は仏教復興運動と日本からの仏跡巡礼が支えていたといっていいわけで。

そんなインド政府観光局は当初銀座7丁目の銀座通り沿いの1階に居を構えたといい、その気合いが窺えるというもの。

その当時の東京最大の繁華街のやや中心から外れているにしてもメインストリートの路面店だぜ。

1968年にその2階にインド料理店アショカがオーペン。

オーペンの経緯はインド大使館からの要望で都内に接待をする店をつくるべくインドの有名ホテルに依頼したらしい。

日本にナーンとタンドリーチキンを伝えた店ともいわれ、日本の北インド料理のフォーマットを固めた店。

その経緯はここも読んでほしいけれど、

この店自体は銀座インズに移転後2011年に閉店するものの、新宿と大阪梅田、京都四条の支店は今でも残っている。新宿と関西2店は多分経営別だと思うけど。

だけど、その銀座7丁目のインド政府観光局というのを自分はよく知らない。

自分が知ってるのは銀座1丁目の頃。

これも銀座通り沿いではあるけど、7階にあって目立たない。この伊勢伊ビル自体はおしゃれで好きなんだけど。

2000年代には銀座6丁目の西銀座通り沿いという住所も見たことがあるので、多分銀座7丁目からインド政府観光局とアショカは同時に移転してるんじゃないかと推測している。

現在の恐らく4代目だと思うオフィスは銀座8丁目、銀座というよりは新橋・汐留と呼べる位置のビルにある。

確か2018年なんだけど、ひっそりと移転して驚いた。

エアインディアの人が「うちとは兄弟のような間柄なのに移転を知らせてくれなかった」なんて呆れてた。

さて、インド観光省とインド政府観光局の大きな仕事としてはなんといってもIncredible !ndiaキャンペーン。

意訳すると「インドの衝撃」⁉️

それまで統一的なキャンペーンを行ってこなかったことを反省して始めたキャンペーンで、

単に観光地だけを紹介するのではなく、ヨーガや舞踊、ベンガルトラに代表される動物などインドの様々な側面を紹介するキャンペーンとなっており、

日本でも駅とか空港とかに割と大々的なポスター貼ってあったりするから「ああ、あれか」と思った方もいるはず。

単に外向けへのアッピールだけでなく、国内におけるコンテンツのブラシュアップにも繋がり、総合的な観光ブランディングの指標にもなったといえる。

これの効果は覿面だった。

2002年のインド入国者数は238万人に過ぎなかったのが、翌々年の2004年には346万人に激増、2017年には1000万人を突破した。

恐らくだけど、日本はこのキャンペーンの効果がそんなに高くなかったんじゃないかな。

2019年までの訪印数を見てても毎年微増ってところで、しかしながら特にJALとANAが成田ーデリー線を飛ばし始めた2012年以降ビジネス客は急増していて、そう考えると観光需要は退潮していることになる。

インド政府にとって日本は訪印者数12位の重要顧客のように見えるけど、プライオリティは下がっていったことが、インド政府観光局が移転する度に縮小していくことから見て取れる。

そしてとうとうインド政府観光局を廃止して、インド大使館のなかで観光業務を兼轄するということになった。

うーん、コロナ禍も間もなく終わってこれからじゃないのかと。

コロナ禍の間にビリヤニに代表されるガチインド料理やテルグ語を中心にした映画の人気が高まったし、オンラインでのヨーガも流行った。

そーゆーこれまでインドに興味のなかった層が、いよいよインドに行き出す段階なんじゃないんかい。つーか、もう既にその流れ出てきてるのを実感できるし。

ちなみにインド政府観光局は今の日本でインドの何かキテるのか全然わかってるようには思えないし、発信力も低い。Facebookは10年間放置してるしさ。(別アカウントと思われるのはあるけど)

インド政府観光局はインド文化振興を担う役割もあり、代々木公園のナマステインディアをはじめとしたインド関連イヴェントの主催や後援を行ったりしている。

最近では東京荒川の南インド料理店なんどりが配給していることで話題になっているタミル語映画『響け!情熱のムリダンガム』の後援もしていて、先日インド政府観光局行ったらポスターが平積みにされていた。

とりあえずインド政府観光局の撤退戦を現在唯一ネット上で推察できるのは、1月18日付でJATA(日本旅行業協会)の賛助会員を退会しているというもの。

ちなみにANTOR-Japan(駐日外国政府観光局協議会)にもインド政府観光局は加盟していたけど、ここも抜けるのか、それとも大使館が代わりに参加するのかは不明。

なお、東京のインド政府観光局は日本のほか、韓国🇰🇷と台湾🇹🇼の業務も兼務していたけれど、これはソウルの大使館と駐インド経済文化代表処に移管されるのだろうか。

日本だけじゃなく、韓国・台湾にとっても損失なんだよね。

看板娘との突然の別れ

そんなインド政府観光局に36年間勤めていた日本人女性がいて、インド旅行を扱っててこの方を知らない人はいないけれど、とりあえずここでは名前を出すのは控える。

3月のインド政府観光局閉鎖を以て退職され、インド大使館には移らないとのことだった。

それでうちのインド人のボスと、あの方を食事にでも誘って色んな話を聞こう、なんて話をしていたところだったんだよね。

本当は色々話を聞いたうえで、この記事をまとめるはずだったのだけど。

コロナ禍でずっとお会いできてなかったし、いつご挨拶に行こうかな、なんて思案してたら、訃報が入ってきた。

孤独死だったらしく、見つかったのは当日ではなかったとのこと。

それで先週、インド政府観光局での葬儀というかお別れ会のようなものがあって、スペースの関係上希望者を断っていた状況のなか、ボスも所属するITOC(一般社団法人INDIAN TOUR OPERATOR COMMITTEE、日本におけるインド人の旅行オペレーターの集まり)の計らいで出席することができた。

黙祷を捧げた後は、インド政府観光局の所長を筆頭に、ゆかりのある様々な日本人、インド人が英語だったり日本語だったりしながら、故人とのエピソードを思い思いに話す場となった。

全然存じ上げなかったんだけど、アジア初のノーベル賞受賞者として知られるタゴールが設立した大学、シャンティニケトンに留学されていたそうな。

享年63歳で36年勤めたってことは、インドから帰ってきてほぼすぐなんじゃないかな。

インド人の所長自体は任期でコロコロ移りゆくけど、その方はずっとそこで働き、我々のような旅行屋だったり、あるいは舞踊や音楽など文化振興したい人達だったり、様々な人の相談役になってきた。

日本人とインド人の板挟みの理不尽さを最も浴びた日本人といっていいけれど、常に飄々として苦境を表に出すことがまったくなかった。

シャンティニケトンの後輩だったという方は、留学時代にケロシンのストーブでよく料理を振舞ってくれた、なんて話をしてたけど、生命力を感じる方だったな。

そんなに何度もお話しできたわけじゃないけど、印象に残っているのはインドの治安の話になった時に、突然声が大きくなり「日本の若い女の子は欧米じゃ夜裏路地にひとりで歩いたりしないのに、インドをはじめとしたアジアでは平気でそういうことをするから❕」なんて言われたっけな。

36年ってことはインド政府観光局の歴史の過半を過ごしてきたわけで、1980年代終わりの恐らくゴールデントライアングルをはじめとして日本人のインド観光が大衆化してきた時代をすべて見ていることになる。

だからこそ聞きたいことは無限にあったんだけどね。

一番聞きたいのは、日本人のインド観光は復活しますか❓ってことかな。

短いスパンで考えちゃダメ。必ず日本人がインドの魅力に気がつく時がくるから。

とか言われそうな気がする。

コロナは時が経って収まってきたけれど、人の命は待ってくれないんだよ、ホント。

政府観光局なき明日のインド観光

そんなこんなで、これまで膨大な観光情報を持っていたインド政府観光局が無くなるのは、非常に痛い。

とりあえず目先で何が起きるかというと、日本語の観光パンフレットが手に入らなくなる。

今ある在庫は大使館で引き継ぐのかもしれないけど、新作はできないだろうね。

そしてその先にはじわじわとその空白がのしかかってくることになる。

インド政府観光局が日本全国、あるいは韓国や台湾でやっていたインドの観光や文化のアッピールが大使館に代替できるとはとても思えない。

それを補完するプレイヤーが必要になってくる。

期待できるのは、民営化され積極性が生まれつつあるエアインディアと、インドに縁はないけれど観光政策に明るい菅前首相が会長職に就いた日印協会かな。

お別れ会でエアインディアの方にもお会いしたけど、国営の足枷が取れてこれからいろんなことができると意気込んでいたし。

既存の組織に期待するだけではなく、何らかの新しい動きも必要だよね。

自分自身、その動きをこれから模索していきたい。

一般社団法人かNPO的なものをつくって、日本人旅行者の側から訪印旅行やインド文化を盛り上げていくようなものを想定してるんだけど、どーかな。

まだほんの思いつきなので、一緒に何かやってみたいと思う方がいれば是非声かけてね‼️

一番顧問に就いてもらいたい方はもうこの世にはいないけど。

おわりに

ということでダブルで悲しい報告になってしまったけれど、

先入観なしでインドに興味を持ってくれてる人が増えてることは肌で感じているし、そういう人達と一緒に新しいインド観光のかたちを創っていきたいと思う。

どんなカタチになるかわからないけど、今後色んな人に相談していきたいと思う。

何か動きがあれば、もちろんここで報告するね✨

それじゃあバイバイナマステ💛暑寒煮切でしたっ✨

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