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ジャッジしない

こんにちは。小学校の特別支援学級の担任をしております。きょんと申します。 支援を必要としている子供たちや、それに関わる先生たちにとっての情報や、人生を自分で生きていくことができるようになるための実践を学んでいます。 見る方にとっても参考になることがあれば幸いです。

ジャッジするな

「〜したほうがいい」
「〜しないほうがいい」

子どもたちと関わる上で教師の判断をこっちから下すことはないでしょうか

当たり前であるが子どもたちとは生きてきた年数が違うのだから経験してきたことも密度も違う。
(まあ必ずしもそうであるとは言い切れないが。)

仮にこちらのジャッジが子どもたちにとってよかったとはいえ、彼らが生きていく上でどんな良さにつながっていくというのだろう。

いや、よかったと子供は本当に思えるのだろうか。
それは自己決定していないからである。

良い結果もあまりよくなかった結果も100%受け取ることは難しい。
それが誰かの選んだものであればなおさらである。

セミナーで乾先生が示していたもので衝撃的だったものである。
幸せを決めるのは何か、といったグラフである。

神戸大学 
https://www.kobe-u.ac.jp/ja/news/article/2018_08_30_01/

一番高いのが自己決定というものである。

学力について叫ばれていることが多いが、このグラフで見る限り幸福度における学力の重要性は自己決定と比べると大きく開きがある。
学力の定義をどのようにするかと言う問題は置いておいて、知識・技能をいかに高めるかということだけを目的にしてしまうことがないようにとも思った。

そして、子供達が選んだ行動を励まして、そして選んだこと自体を認めて挙げることがこちらのしてあげられることだろうと改めて感じた。

しかし子供たちが自分で選びできるようになってほしいということをどの先生も祈っているだろう。
ではなぜ、先生は、何なら大人はジャッジしだたがるのだろう。

それは二つ考えられる。
一つ目は自分が正しいと感じたいから。そしてそれを感じられると気持ちいいからではないか。
良い結果は自分のおかげ、仮に失敗しても本人の努力の不足などを言い訳にすれば自分のジャッジは悪いことには滅多にならないのかもしれない。
自分があまり努力することなく相手をコントロールできることは気持ちいいのである。
これが怒ったり、不機嫌を通して行われているとなるとかなりタチの悪い。

二つ目は失敗の後始末が面倒だからである。
面倒なのわかる。
しかし自分で決められない子供達を作っていって誰が困るのか。
大人、もそうかもしれないがその子がなにより可哀想である。

セミナー後の懇親会においてもそのような話になった。

〇〇先生はジャッジしないから信頼できる、と。
しかし、自分の子育てとなるとね。という悩みを持っているのもまた面白かった。それに対して「自分の子どもが決めたことなんだから好きにさせたらいい。」と自然に言える方もいた。

それが難しいのよね、と思うけど、最近の子育てではつい、ジャッジしそうになったときに思い出す飲み会のワンシーンだ。

途中から思い出話になってしまいましたが、子供の自己決定を応援できるように大きく構えていたいものだなと自分の在り方を考えるきっかけになりました。

それでは、良い1日を。

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