「読書記録「チッソは私であった/緒方正人」」

<自然の脅威>
・NOTEまとめ読み直す
・「“ここまでは人間たちのものじゃなくて、海のものだったんだ”という、なにか意志めいたもの、海の意志みたいなものを感じるんです。」

・責任を問うべき対象である加害者たちが巨大な化け物で、人間として引き取ってくれなかったものだから、それが跳ね返ってきた。

・熱狂できるものが欲しい、確かなものが欲しい、それを追い求めていたいという気持ちが生まれてしまう。そういうものがあるからこそ、精神力は磨かれていくような気がして、逆に、そういうものが乏しい今のご時世で己を磨くというのは凄く難しいことのように思えてしまう。平和ボケなのか。
そしてだからこそ、戦争とか水俣病とかそういう残酷な歴史について知識を蓄えていきたいと思う。

・全体としての自分という考え方を思い出す

”幸福とか生き甲斐とかいうものは、生きている木から枝を伝わって葉に来る樹液のうちに含まれている。”
自分を俯瞰してみる。
自分はどんな集合に属しているのか。それらによって生かされていること、自分という存在が成り立っていることを忘れてはいけない。
「それ以前は自分で生きていると思っていたのだが、それ以後は”生かされて生きている”という感覚を持つようになった。自分は命を殺して食って生きている。そうしなければ生きていけない。生きていることそのものが罪である存在。」

「食って生かされている自分。他の命たちと繋がってしまっている自分。大きな自然というか、自然の法則というか、そういうものにつかまって、ひれ伏したという感じがありますね。帰依しちゃったというか。」

これらの思考に近づく感覚になることがあるが、矛盾を孕んだ未熟な自分を見出してしまって、その曖昧さに呆然としてしまう。
ただ、この思考に至ることができたのも本当に狂って、狂って、死に物狂いで至った思考と考えると、その境地に自らがたどり着くこというのは簡単なことではないと気づかされる。

こういう本を読んでいると祈らずにはいられない。(田口ランディ、水俣への祈り)

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