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記憶の欠片(幼少期のエピソード)

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特に山もオチもない日常の一コマが、なぜか鮮明に記憶されている。 なぜそんなどうでも良い瞬間の記憶が、そのほか多くのビッグイベントの記憶よりも鮮明に焼き付いているのか。 あの日あの…
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2022年1月の記事一覧

上海ボーリングストーリー(ジュリア)

幼少期は上海に住んでいた。 そのころの記憶なんだけど 、 当時の上海はまだ混沌としていて色々な情報が錯そうしていたし、 アメリカをはじめ西洋の文化はまだまだ見る事が少なかった。 小学校に上がる前の私にも、なんとなくそれが解かっていて、 だからといって、何か特別に思う事もなかったんだけどね。 その頃、私のおじいちゃんは出版社に勤めていた。 多分その関係でなんだろうけど、 当時上海ではすごくレアで珍しかった「アメコミ」を入手してきた。 おじいちゃんはすごいもの

殴る友達(あきし)

最近ね、占いを受けた事があって、 その時に過去の自分を振り返るってのをやったんです。 過去を振り返るってあまりしてこなかったから、 良い機会かなと思って。それで思い出したんだけど、 幼少期から小6くらいまでの間、 僕のことを殴ってくる友達がいたんです。 もう、ほんとに意味もなく。意味がわからないんですよ。
 何もしていないのに急に手をあげて叩く。 何か言うわけでもなく、ただ叩く。 でも痛いとか、悲しいとか、そういう記憶はないんですよね。 記憶に残っているのは、悲しそうなそ

エプロンとカンガルー(あきし)

小学生の頃、近所の河原を散歩していました。 地元熊本ですからね、田舎なんですよ 基本的に人なんて歩いていない でも、その日河川敷をあるいていると犬の散歩しているみたいな人がいたんです。 「あーめずらしいなー」と思いながらも、 じっと見ているのも気まずいので目をそらしました。 それで、ちょうどすれ違う時に、 もう一回散歩しているおじさんの方を見たんです。 ぎょっとしました。 犬の散歩だと思ったそれは、犬ではなく、カンガルーだったんです。 え、嘘だろ そう思って二度見し

優しい手(海を越えるアサギマダラさん)

小学校に入る前だから、5歳か6歳の頃だと思います。 当時の私は体が弱くて、風邪をひくといつも高熱を出して寝込む程重くなっていました。 頻繁に熱を出す私に、両親は大変だったんじゃないかな。 私が熱をだすと、いつもお母さんが看病をしてくれていた。 でも、印象深かったのはお父さんの話。 お父さんは仕事から帰ると、真っ先に私の部屋に来て、 ただいまも言わずに、「辛かったね」と優しく言いながら、ぎゅーっと強く抱きしめてくれる。 そして、ゆっくりゆっくり、上から下へゆっくりと、何度も

孤高の上海ハニー(ジュリア)

3歳か4歳の頃 おじいちゃんとよく散歩に行っていた 当時中国に住んでいたのだけど、 当時の中国の道路事情は未開発で、舗装されていないとか、 突然穴が開いているとかがざらだった。 おじいちゃんは私が転ばないようにと、 いつも手を引いて誘導してくれていた。 その日もいつものようにおじいちゃんと散歩に行ったのだけど、 なぜか私は手を引っ張られて誘導される事が許せなかった。 「私より先を歩かないで!!」 そう叫びながら、おじいちゃんの手を振り払い地団太を踏んだ。 昨日ま

傲慢な社会は何を捨てにいくのか?Bちゃんの話(レモンさん)

今でもずっと知りたいと思っている本のタイトルがある 小学生の時の友達でBちゃんがいた 背が高く、控えめで、鹿のような眼をした女の子 私は小学校の時、活発なグループに所属していて、 Bちゃんは物静かなグループに属していた 小学校時代のBちゃんとの思い出は、卒業式のカラオケ大会。 活発な私は複数のグループに所属していた。 一方Bちゃんは、どのグループにも所属で来ていなかった。 私はBちゃんに声をかけ、 「一緒に”Wink(ウィンク)”を歌おうよ!」と誘った。 打ち合わ

怖さを曝け出したら、先生にめっちゃ褒められた(レモンさん)

小中学校の時の夢は小説家だった 母が幼少期に本を読み聞かせしてくれた事や、 お年玉やお小遣いは全て本を買うくらい本が好きだった。 それもあって、私は作文は得意だった。 わたしは、小学生にしては、ひねりの利いた文章を書けることに自信を持っていたが、 先生が私の作文を評価してくれた点は別だった。 それは、障子が怖いという作文 昔の家には和室があった。 和室の障子は西日が当たり、部屋に伸びる黒い格子の影は 私に不吉な連想をさせ、恐怖の対象だった。 その事を、思うがままに書いた作

きびすを返す彼(レモンさん)

私には息子がいる 彼は私とは違う。 空手を4歳からはじめ、今では黒帯まで持っている。 私とは真逆の存在だ。 学ぶ部分もあれば、理解できない部分もある。 それでもその幼い彼は、尊敬できる存在だった。 彼の憧れは「応援団長」 小学校の運動会で応援団長を見た彼は、 紅白の鉢巻きをして、胸をはり、 大声で応援する応援団長は憧れるには十分だった。 自分も応援団長になりたい その想いは小学生だった彼の心の1つの柱となっていた。 そしてもう一つの柱は騎馬戦団の団長になる事。

最後の跳び箱(レモンさん)

私は怖がりだ。 おばけも怖い、泥棒も怖い。 そして、マット運動で後転する事さえ怖い。 首の骨を折るんじゃないか、手首を捻挫するんじゃないか、 そういう想像が先走り 足が動かなくなる。 小学校の体育には跳び箱の授業がある。 小学校では6段飛べれば合格で、人によっては8段10段飛ぶ人もいる。 この跳び箱が曲者だった。 跳び箱は私に負の連想をさせるには必要十分だった。 私は跳び箱が飛べない。 それは運動神経の問題ではない。 負の連想で体が動かないのだ 私は一番低い3

家路イノベーション(おかず)

たぶん小1くらいだったと思う。 当時習い事をしていて、 今思えば家からすぐ近くだったんだけど、 その道のりは7歳の私には果てしなく感じられた。 習い事は夕方には終わるんだけど、 夏場なら明るいその時間も、冬になると もう薄暗く、 家路を覆う黒い影が、私の心にも影を落とすように感じた。 暗闇は危険だ。 だって、悪い奴が出て来るのってだいたい暗がり。 今風に言えば、悪そうな奴はだいたい暗がり♪ってなるのかな。 今では冗談交じりに話せるけど、当時の私には死活問題だった。 暗闇

”てんし”のくれた贈り物(ふらっとさん)

たまごっちブームが終わり、「てんしっち」が流行っていた頃の話。 6歳くらいの頃、祖父と一緒にお店に行った。 それがデパートのおもちゃコーナーだったのか、 高速道路のサービスエリアだったのかは定かじゃないけど、 6歳の私は祖父に手を引かれて歩いていた。 おもちゃ売り場に差し掛かった時、 私の目はある商品にくぎ付けになった。 それは、「てんしっち」をモチーフにした腕時計。 「てんしっち」っていうのは、 空前のたまごっちブームが終わりに差し掛かった頃 二番煎じの商品が大量に市

バトル オブ 雲梯(サムヒデ)

年中か年長の頃、幼稚園で雲梯ブームがあったんですよ。 休み時間になると、男子全員雲梯集合!みたいな。 それで、何して遊んでたかっていうと、 ただ雲梯を渡るわけじゃなくて、バトルしてました。 最初に、雲梯(ウンテイ)の右端と左端のスタート地点に対戦する二人がスタンバイするんですよ。 それで、ヨーイドンで2人が同時にスタートして、 早い遅いはあるけど、だいたい真ん中位で二人がかち合うんです。 そしたらバトルスタート! お互いが相手を雲梯から落とすために、 足で相手を蟹挟みして

ユニクロ(巨万の富男)

高校の時、自転車でユニクロに行った 家から30分か40分走ったところにある幹線道路沿いのユニクロ 当時ユニクロは、フリースを発明する前で、 ユニクロ=ダサいセレクトショップの代名詞だった。 でもね、なぜかリーボックのバッシュがめっちゃ安く売ってたんですよ。 リーボックのバッシュを買いにユニクロに向かっていて、 ユニクロの前にある交差点で信号待ちをしてました。 その信号待ちの最中に見た風景、 何の変哲もない風景、 なんでかわからないけど、この風景がめちゃくちゃ鮮明に記憶さ

和室にまつわるナイトメア(FUJI氏)

「和室」 それは家の中にあるのに、なぜか別の空気が流れているように思えた。 幼少期、僕の実家には和室があった。 高度経済成長期がを経て、急激な核家族が進んだ日本では、 旧来の日本家屋は町から姿を消し、 大手ハウスメーカーの建てた家が軒を連ねるようになる。 それに伴い、旧来の日本家屋は「和室」の名を借りて、 洋風建築の一室に押し込めらる事となる。 そして当然の流れとして、洋風建築の一室としての「和室」は 祖父母のスペースにあてがわれる事が多くなる。 僕の家も、そんな日本の