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『関心領域』を観て。

『関心領域 The Zone Of Interest』を観た。といってももう結構前だけど。

アウシュビッツ収容所の隣で暮らすナチスの高官一家が幸せそうに過ごしている様子を淡々と映す作品。要約するとそのような内容で特にこれといった事件も起きない映画ではある。
ただ、アウシュビッツ収容所幸せという絶対に混じり合うことがないはずの単語が連なっている通り、そこで普通に幸せに暮らしているというひずみをずっと観客は観ることになる。何がおかしいのか分からないけど、何かが絶対的におかしいまま、日々が過ぎていく様子を体験させられる。
アウシュビッツ収容所やここに住むヘス一家の知識があればある程、細かな情報から今アレが起こってる…!と知ってる人は戦慄するのだろうけど、知識レベルとしては”うっすらレベル”の自分でも十分にいびつさを感じて怖かった。(収容されてる人たちの声を掻き消すためにオートバイの音をめっちゃ吹かしていた、とか後から知ってから怖くなったこともあったので、色々調べた後にもう一回観るのは凄くアリ。)

この映画の劇中にも出てくる
「ユダヤ人問題の最終解決」を話し合う会議を描いた作品『ヒトラーのための虐殺会議』を観た時も思ったが、大前提が狂っているのに普通にしている、というのが怖い。
1100万人のユダヤ人を如何に計画的に駆除するか?という議題で会議している様子をこれまた淡々と写している映画なのだが、淡々としているのがおかしい。人道的にあり得ないのは勿論だが、1100万人の人々を葬り去るのは移送や収監、殺害方法から遺体の処分まで物理的にも無理がある。実際、途中でどうしたらええねんコレ…みたいな空気が流れる瞬間もあるのだが、誰一人として止めません…?と言い出さないのが怖い。全員がお互いに志村うしろうしろ状態なのに、誰も指摘しないという恐怖。全員の後ろに立っているのに。全員お互いに見えてるはずなのに。全員志村けんなのに。誰もそこには触れない狂気。
絶対的におかしいことが起こり続けているのにちっとも笑えない状態が続いていく。

ナチス関連の映画でいうと、『ペルシャン・レッスン 戦場の教室』という作品も面白かった。
ペルシャ語を習得したがっているナチスの将校にユダヤ人の青年がペルシャ人のフリをして命懸けで嘘のペルシャ語を教える、という内容だ。
ナチスの将校とユダヤ人の青年がペルシャ語のレッスンを通じて奇妙な友情を結んでいく…ということは全くない。いや実際、将校の方はレッスンを重ねる内に青年を信用し特別待遇で接するようになっていくのだが、青年の方は目の前で同胞がナチスによって日々殺されていくのを目にしているのである。仲間たちと違って自分だけ生き残り続けることに青年は罪悪感を覚えて将校に強く反発することもあって、それに気圧されて将校が何となく謝るシーンすらある。青年が将校に心を許すシーンはなかった。ありそうでなかった
観客として観ていても、すっかり騙されてる将校ウケるとも一概に思い切れないし、鉄面皮の内側が実はナイーブな将校にも共感しそうでし切れない。何故なら結局、彼はナチスとして毎日残虐な殺戮を繰り返しているからだ。そこに人として共感の余地も、許される余地も全くない。
立場や出会うタイミングが違えば俺たち友達になれたかもな!という爽やか映画ではなく、普通の人でも条件が揃えば如何に残虐になれるかという、戦争の怖さを改めて伝えてくれる映画である。実際この映画の収容所にいるナチスの兵隊たちは凄く普通に恋愛をしている。メロドラマと言っても良い結構ドロドロした恋模様が展開され、普通の若者たちだったんだな、ということが分かる。ただその結末は昼ドラでもあり得ないような、恐ろしい決断が下される。ブラックコメディとも取れるが、どうにも笑えないのは大前提としてナチスの収容所だからというのがある。
青年の偽ペルシャ語の作成・記憶の仕方と、そこから繋がるオチにはとても感心した。

先日、久しぶりに学童のバイトに行った。新年度になってから初めてである。そうしたら巷で騒がれていたあの規制が今年度から僕のバイト先でも適用されることになっていた。あだ名禁止令である。
大人も子供も互いにあだ名で呼ぶのは禁止。大人が子供を〇〇ちゃんと呼ぶのも禁止。基本的には〇〇さんで統一すること。そうでないと不公平だから…ということらしい。
ふへぇ。としか応えようがなかった。
以前は大人は子供に慣れ親しんで貰うためにむしろ積極的に子供達にあだ名を付けてもらってそれで呼んで貰うようにしていた。僕も前から居た子たちには"きょきょ”と呼ばれていた。
しかし、それもダメということらしい、正式には。今回の規制を受けて、きょきょと呼ばずに山川先生と呼び直すようになった子もいれば、普通にきょきょと呼んでくる子もいる。規制に従うなら直すように指摘するべきようだが、はっきり言ってどうでも良いので好きに呼ばせている。

あだ名禁止令は何故生まれたのか。明確な理由はよく知らないが、本人が嫌がるようなあだ名で周りが呼ぶ、という軽いイジメのようなことがあったから…ということらしい。
だとしたら、問題なのはそのイジメにあるのであって、その本人が嫌がってるあだ名で呼ぶのは止めさせるにしても、全く関係ない愛称呼びを禁止する意味がわからない。変なあだ名で呼ぶ以外の嫌がらせもしているのだとしたら、イジメに対しては何の解決にもなってないし。まともに問題に向き合わず、変にセンセーショナルなことだけやって現場を混乱させているだけだ。マジで何がしたいのか分からない
特別扱いはダメみんな平等に…という空気もあるっぽい。運動会も競争して順位付けするのはダメで、手を繋いでみんなで一緒にゴールなんて話もありますしね。そのうちカッコイイ名前とカッコ悪い名前があるのが不平等だ、とかなって名前で呼ぶのが禁止になって全員数字で呼ばれるようになったりするんじゃないですかね。単純に1番、2番、3番とかだと高い低いでまた文句が出るから、英数字を混ぜたランダムな17ケタの番号になったり。もしくは数字でもアルファベットでもギリシャ文字でも好きなのを自分で選んで良い選択的別称制になるかも。先生、オメガベータさん81552TSz9bJ0li997さんのことをJORI997って呼んでました!だって言い辛いし覚えられないんだもん。もう面倒くさいから名前で呼べばいっか。みんなの名前は何だったっけ?ってアホか

でも何かそんな、根本の大前提が狂ったままで走り続けているような空気が今の世の中にはあるなぁと子供たちのはしゃいでる姿を見て思うのだった。

僕はあだ名が多いです。
きょきょ、社長、カントク、ヒゲ、ヒゲカン、山ちゃん、きょろぺ、おじいちゃん、スター、やまかっちゃん、グリーンスター、ベネズエラetc…

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