見出し画像

【小説】想像もしていなかった未来のあなたと出会うために vol.70

★再出発★

 みくは大学4年の時、三栖多佳子との別れがきっかけで、精神的に病んでしまい、小野紗百合のカウンセリングを受けた。今思い出すと、その頃は自分の殻の中にすっぽりと入ってしまい、もがいても出ていけない苦しさを味わっていたように思う。
 カウンセリングは、殻の外から優しく呼びかけられるような感覚を受けた。出てきても大丈夫、そのままの姿でも安全だと言われ続け、殻を割り、少しずつ外界と触れ合えるようになっていった。
 しかし、いったん殻に引きこもってしまったせいで、それまでの日常をどのように過ごしてきたのか分からなくなっていた。食事をとっても、布団に入って寝ようとしても、心と身体がバラバラな感じがして、自分のための日常生活なのに、誰か人のために動いているような錯覚に陥っている。定期的に通っている紗百合とのセッションでは、毎回体調のチェックが入るが、それを応えるのにも、何か他人事のような感覚がした。

 「体調を知るうえで、食事をおいしく食べられていますか? っていう質問が重要なことはわかっているのですが。・・・毎回聞かれると、なんだか引っかかるものを感じるんです」
クライアントだったみくは、紗百合に聞いたことがある。
「その質問に、引っかかるのね? それはおいしく食べられていないからかしら?」
「本当はそうなのかもしれません。・・・だけど、この質問があるから、懸命においしく感じようと思っている自分がいるんです。・・・カウンセリングのおかげで、以前よりは食欲も出てきて、無理に食事を摂っている感じは無くなったんですが。・・・じゃあ、おいしく摂っているかって言うと、そうではないなって思っていて」
「それならそれで、おいしく摂っていないかもしれません、で、構わないのよ? 無理においしく感じる必要はないのよ」
「・・・そうなんです。それは、わかっているはずなんですけど」
紗百合は、あまり納得していないみくに、質問を重ねた。
「睡眠はどうですか? よく眠れていますか?」
「・・・たぶん、良く寝れていると思います」
「あら? 他人事みたいな答えね?」
「・・・そこなんです。自分のこととしての実感がないんです」
みくがそう言うと、紗百合はわかったわ、と言った。
「今日は場所を変えて、相談っていう形を離れてワークをやりたいと思うのだけど、構わないかしら?」
「大丈夫です」
「体力を要するかもしれないけど。大丈夫ね」
そう言うと紗百合は、みくを事務所ビルの屋上に連れ出した。

 気持ち良く晴れた日だった。中高層のビルの屋上からは周りの景色が見渡せる。紗百合は身体を伸ばし、ストレッチをするよう促しながら、みくに聞いた。
「・・・今、どんな気分ですか?」
「・・・うーん。何が始まるんだろうって、なんだか不安です」
「そう。わかりました」
紗百合はみくの言葉を受け止めた。
「じゃあ、空を見上げて下さい。・・・今日の空の色は何色見えますか?」
「空色? ・・・白味が強い色かもしれません」
「わかりました。他には何が見えますか?」
「・・・雲です、うっすらとした、白い雲」
「はい。・・・他には何が見えますか?」
「・・・えっと、空には特にそれ以外は見えなくて、ビルが目に入ってくるのですが」
「OK。何色のビルですか?」
「私が見ているのは、白い壁のマンションみたいな。・・・あそこです」
「私に教えてくれなくても大丈夫ですよ。・・・これからは、目に留まることを、どんどん口に出していってみてください」
「はい・・・」
「隣もビルで、そこはピンク色っぽい壁の色です。・・・えっと、右に目を移すと、遠くに茶色っぽいビルが見えます。目に入るのは大型のビルばかりですが。・・・戸建ての住宅もあって。・・・道路も見えます」
「・・・OK。・・・今はどんな気分ですか?」
「ちゃんと言えてない感じで。・・・こんなことに何の意味があるんだろうって、思っています」
「・・・それって、みくちゃんの考えよね? そうじゃなくて、気持ちを聞きたいのだけど? どう感じているかってこと」
「・・・気持ち?」
自分の気持ち、どんな気分か? と聞かれてみくは、何を聞かれているかさえわからない自分に気が付いた。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?