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【小説】想像もしていなかった未来のあなたと出会うために vol.60

★入院★

 幼い頃から母には、支配されているという感覚しかなかった。常に行動を監視されて、間違ったり失敗すれば、ひどく怒られた。教育に熱心だったと言えば聞こえはいいが、自分が望みもしない習い事をいくつも習わされて、進学にも厳しかった。
 極めつけは中学受験である。尚美自身が積極的ではなかったせいか、第1志望の中学に落ちてしまった。落胆した母はますます口うるさくなり、罵倒されたこともあった。今考えるとパワハラか、教育虐待に近い。
 しかし、言い返せなかった。自分が受験に失敗したという負い目からだ。母の思い描く尚美になれなかった自分は、生きている価値のないように思えた。いくら勉強で頑張っても、母には認めてもらえない。98点で学年1位を取ったとしても、100点じゃないと許されない。たとえ100点でも、全教科そうでないと、ダメなところを指摘された。
 高校に入ってからは、極力家にはいない生活をして、母との接点を少なくした。そして、大学で東京で1人暮らしをするために受験を頑張った。

 家を出て四半世紀近くたって、母が入院したと聞き、実家に戻ってみると、その時とはまるで違う母がいた。
 自分が振り切って実家を出たことで、自分磨きに目覚めたという。
 今でも母の呪縛があるのではと恐れ、また支配的に小言を言われるのではないかと思っていたから、肩透かしを食らった気分だったが、同時に重い荷物を下ろせた安堵感があった。

 「尚美には母さんがうるさかったけど、私は父さんに叱られてばかりいたんだよ。母さんにもうるさかったんじゃないかな。・・・その父さんが癌で闘病生活になったのも大きかったかも。母さんに頼らないといけない生活になって、・・・母さんも頼られることで、なんだか私たちが子どもの頃にあったギスギスしたところが、無くなったんだよ」
聡美は言う。
「そっか・・・。そんなことがあったのね。・・・人って変わるんだね」
「うん。そうだね。・・・変わったんだよ」
厳しかった母が丸くなっていたなど、想像していなかった。にわかには信じられないが、病室で見た穏やかな母は、確かに丸くなったのかもしれない。
「今でも思い出すのが、小学生の頃、お母さんに習い事をいっぱいやらされて、本当に嫌だったの。・・・辛かった」
それでも尚美は、昔の辛かったことを蒸し返す言葉を口にしてしまった。
「尚美ったら・・・。私はやらせてもらえなかったから、尚美はいっぱい習い事をさせてもらって羨ましかったんだよ」
「・・・ホント?」
「なんでも、尚美ばかりでさ。・・・私はほったらかしにされた感があって寂しかったんだよ」
「えっ? 私には、聡美が自由に遊ばせてもらえて、本当に羨ましかったのよ。私はお母さんに束縛されて、苦しかったから」
「・・・なんだ。尚美は尚美で、そんな風に思ってたのね」
聡美とは仲が悪くはなかったが、母から姉妹で差別されていたから、お互いが本音で話すことなどなかった。今になって話せるのは、時がそうさせるのだろうか。

 尚美は改めて言う。
「本当に苦しかったから、私ったら逃げてしまって、お父さんやお母さんの面倒を、聡美に任せっきりにしてしまったわね」
「・・・今までのことは、もういいよ。・・・これからどうするかだよ」
「そうね・・・」
「今回の脳梗塞は、大事には至らなかったけど、心臓の方が相当弱ってきているみたいだからさ。・・・そういう覚悟をして看病しないといけないみたいなんだよね」
「ええ」
「ねぇ、尚美はそばで看病してあげられないかな?」
「えっ?」
「私は母さんの世話をしたくない、っていうわけじゃないけど。・・・もう長くはないのなら、尚美も最期くらい、お世話をしてあげたらどうなのかな、って思ったの。尚美の住んでいる近くの病院とかに入れてあげたらどうかな、って」
「聡美はどうするの?」
「私の方が子どもが大きいから、かなり自由がきくでしょ? もしなんなら、1人で東京に行っても大丈夫だし」
聡美の申し出に、即答はできなかった。今でも確執を拭い去ることができない母のお世話ができるだろうか、という心配もある。しかし、何もしないまま母を見送る時が来てしまうのも、後悔するだろうと思う。
 尚美は、母と向き合うことを躊躇っている自分と、格闘していた。


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