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リパッティの忌日、コロナの思い出

リパッティの忌日でしたね。
2020年の5月30日、自宅軟禁中に流行していたバトンを受け継いで、リパッティについて書きました。
リパッティは昔から好きなピアニストなので、せっかくなのでFacebook から転載します。

🩵パリ時代から大変大変お世話になっている ヴァイオリニストの佐藤 美都子さんからのバトンを引き継いで好きな演奏家(ピアニスト)について書きます。
美都子さんは、私が日本に帰国したばかりで何をやったら良いものかと右往左往しているとき、たまたまご主人の転勤で日本に住んでいらっしゃって再会しました。六本木の、それはそれは広くて素敵な✨アパートメントに招いていただき、そこで開かれたサロンコンサートで一緒にシューマンのクインテットを弾かせて頂いたことは一生忘れられない思い出です☺️
私の好きなピアニスト、、、と言っても、実は子供の頃から好きなピアニストといえる存在はあまりいません。
唯一ルーマニア生まれのリパッティのことは、20歳前後の頃に神様のように崇拝していました。パリに住みはじめたころ、日本語が喋りたくて『日本人会』という日本人が集まっているオフィスに行ってみたら、受付の男性がやはりリパッティのファンで、復刻版のCDの話などで大変盛り上がったのを思い出します。
シューマン、グリーグ、モーツァルトの21番などのコンツェルトやショパンのバルカローレ、ナディア・ブーランジェとのブラームスの連弾などを、ただただ好きで良く聴いていました。
リパッティは悪性リンパ腫により33歳でなくなってしまっていますので、ピアニストそして作曲家として活躍できたのはわずか20年足らず、しかもそのほとんどは体調が悪かったことになります。
パリのfnacでは日本よりはたくさんのCDを見つけることができましたが、買い漁ったCDを並べて、こんなに録音が少ないことを残念に思っていました。
伝記によると、これでも主治医の先生やレコード会社、録音スタッフが協力して、ステロイドが効いて体調の良いときにできるだけたくさん録音を残す努力をしたようです。「マリー・キュリーの研究所から新薬が届いた」などと手紙に書き残されていて、時代背景を感じます。左腕がリンパ腫でパンパンに腫れて痛かったそうで、レパートリーは自分で選んだというよりは、病気が悪化していく中で制限されていたことがわかります。コルトーがインタビューで『いま最も有望な若手は?』と質問され、『リパッティ。もういないけれど』と涙を流したそうです。
何かの縁なのか、パリ音楽院を卒業した後にドヴァイヨン先生に習いたくてジュネーヴの音楽院に入学したとき、学校にリパッティの名前がプレートに刻まれて残っているのを見ました。ここで教えていたのだ、という事実と向き合うことができて感無量でした。
有名なブザンソンでの最後のリサイタルは、後半にショパンのワルツ全曲弾く予定が、最後に持ってきていた2番のワルツをどうしても弾くことができず、アンコールに『主の人の望みと喜びを』を彼のピアニスト人生最後の曲として弾きました。聴衆も、これが最後になることがわかったと言います。
同じルーマニア出身のピアニストであるクララ・ハスキルとの交流も本には書かれていますが、自分よりずっと若い、そして明らかに天才的なリパッティが先に亡くなるのをどんな気持ちで見送ったのかと想像すると胸が苦しくなり今でも涙が出てしまいます。
リパッティの魅力はやはり音色です。病気などの不遇は全く感じさせない、明るくて透明感があり、天国に真っ直ぐ繋がっているような迷いがない音色。

次のバトンは友人たちにお声がけしたけれど返信がないので、とりあえず投稿します。良かったらバトンを拾って繋げてください。好きな演奏家や作曲家について語るバトンです❣️


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