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三角縁神獣鏡は、卑弥呼がもらった鏡じゃないよー。卑弥呼の鏡を調べてみた!!

卑弥呼がもらった鏡っていうのを、調べてみました。100枚もらっているという話が魏志倭人伝に出てきます。

畿内派はよく、「三角縁神獣鏡が卑弥呼のもらった鏡」っていう人がいるみたいで、一生懸命説明してるけど、「それ、日本国産だから!」って話だ。

「中国の考古学者・王仲殊氏は、鏡の様式から「三角縁神獣鏡は、日本に渡った呉の鏡職人が日本で製作したもの」と判断している。そもそも作った年月を鏡に記す習慣も、魏ではなく呉のものである。

こういう話を書いている人もいる。

「「邪馬台国=畿内説」の考古学者、石野博信氏は、1998年の『歴史と旅』四月号所載の「”卑弥呼の鏡”ではない」のなかで、つぎのようにのべている。
(三角縁神獣鏡は)ヤマト政権が弥生以来の祭式を廃止し、中国鏡をモデルとして、四世紀にヤマトで創作した鏡なのである。

同じことを書いているのに、結論が違うぞwww
「中国の考古学者の王仲殊は、三角縁神獣鏡全ては魏の敵対国の呉の工人が渡来して、日本国内で生産されたと推理している。」
「大阪府立近つ飛鳥博物館館長白石太一郎著『古代ヤマトと三輪山の神』(学生社2013年刊)
「中国大陸で一面も出てこない鏡、そして日本列島で大量に出てくる鏡を魏からもらった鏡と考えるのはおかしいと、同志社大学におられた森浩一先生が40年以上も前に問題提起されています。これはもっともな疑問で、私もこの鏡を魏からもらった鏡と考えるのはおかしいと思っています。
→ほーら、森教授だってそういわれていたのだ!!

問題は、三国時代の呉が魏の敵国であったことである。
魏の皇帝が呉様式の鏡を倭に下賜することは、現代の譬えで言えば、中国の北京政府が、李登輝台湾総統の肖像が刻まれた日中友好記念硬貨を日本に贈るようなもので、おおよそありえない国辱的行為である。
→ 私もそう思いますな。そんな国辱行動を昔のような時代にやるかい。ばれたら、首をチョンって切られますよ(苦笑)。

Wikipediaに、中国の鏡の歴史が書いてあるのだが、表にされていてこんなかんじ。

この表の下の方が、魏の時代、漢の時代なのだ。

だから、デザインでいうとたとえば、こういうのとかなら可能性あり。

ただし、大きいものは日本国産らしい。そして、このデザインって、実は三種の神器、八咫鏡と同じらしいのだ!! わー、すごい!!

これは、漢時代なので、魏の時代とほぼ同じ。


實盛は、卑弥呼が魏から下賜された銅鏡百枚に斜縁神獣鏡が含まれていたと推測し、これを国内で模倣したのが三角縁神獣鏡としている[11]。」
おおー、この先生は、卑弥呼の鏡かもしれないといってるぞ!!

「以上の特徴を持つ鏡は2009年時点で53面確認されており、伝承を含めて出土地が明らかなものは日本国内が43面と最も多い。その分布は近畿地方を中心として山梨から大分まで広く分布する。日本国外では中国の山東省で3面、朝鮮半島の楽浪郡で5面である[1][2]。」


ついでに、これはもっと後なので、唐時代です。だから、邪馬台国なんか関係ない。未来の鏡だね(笑)。


成分から研究している人がいた。これは、面白い!!


それで、全国の出土地域的にはどこの県から出土してるんだろうってので、この人の解説がありました。

この方の出土品リストもなかなかよいです。素晴らしいですね。
でも、上に述べたように「前方後円墳」「三角縁神獣鏡」がどんなにいっぱい出ても、邪馬台国が衰退か滅びたかした時期以降なんで、何も関係ないですwww
(下のほうは東北・北海道なのですが、いったん省略します。さすがに寒いので、邪馬台国ってことはない。)
四国の邪馬台国時代が0枚っていうのは、これはもっと調査しないといけないかなと思います。時代が20年ほどだから、誤差の範囲かなと思いますが、年代が掘ってあったら別ですが。
(データがたぶん10年以上前だと思うので、新しいデータで更新してもらいたいですが、面倒くさそう。)

九州と畿内が圧倒的に数が多いのは、この100-150年ずっと予算もついていて、掘り返されまくっているからです。まあ、面積も広いですが、考古学的には重要地域なので、発掘件数も多いでしょうね。
実家の近くにもたくさん古墳があるのですが、出まくって当たり前なのです。小山を見たら、古墳と思えってかんじですwww

「■10種の魏晋鏡
安本教授は、卑弥呼が魏から貰った鏡は三角縁神獣鏡ではなく、その当時中国の北方で入手できた内行花文鏡、位至三公鏡などの鏡であろうと考えている。魏や晋の時代に、中国北方で流行した10種の鏡について出土状況をみたのがこの数値である。これによれば、畿内よりも九州から多く出土し、福岡県からは奈良県の20倍にちかい数が出土している。
時代ごとの分布を見ると、弥生時代に福岡地域で使われていた鏡が、後の古墳時代になって、近畿など他の地域にも広がったように見えると指摘する。」

(安本先生は、邪馬台国九州派の研究家です。)
位至三公鏡はこういうの。

同じ方からの引用で、これは鉄器の出土です。
まあ、これも九州は多い。だって、プレ皇室一派+縄文人九州在住者+後から入って来た大陸からの渡来人分が累積してるんです。当然ですね。
だいたい、大陸から上陸したら、ほぼ9割とかは九州を通るだろうに・・・。

ちょっといいのは、岡山や山口の瀬戸内海沿岸もまあまあ多くて、吉備王国とかがいたのかもです。この吉備王国が邪馬台国かどうかは、研究する価値はあると思います。ただ、単独なのか、四国の向かいだから広域だった一族がいたかはまた別に研究すべきだと思います。

日本海側ですが、島根県には、地獄への入り口、黄泉平坂があります。

ここ、行ってみたい。


ついでに、絹の出土だが、同じく引用しますが、この表は古くて、半年ほど前に四国の古墳から、絹が出土しているのを私は確認した(でも、アホなので古墳の名前を忘れたので、メモを見直さなければいけないwww)。単独の布ではなくて、なんか、斧だったか、鍬だったか忘れたが、そこに保護用に巻き付けてあったのだ。
おおー!! 見逃しやすいのだ!! 


まあ、絹はただの繊維だから、金属や石などよりすぐ破損して消滅してしまう。温かいところでは特にそうだろう。

そして、大和朝廷、初期には絹織物、養蚕技術知らんかったので、後から誰かに教えてもらったのだ。→邪馬台国の滅亡後に、元の邪馬台国民から教えてもらったのかもしれない・・・・。

四国に忌部氏がいるのだが、大嘗祭とかに麻布を供出しないといけないのだが(献納というのか、出せといわれているかよくわからないが、定例らしい)、絹じゃないんだよな。どうせなら、高いほうの絹を出すべきなのに、麻を出すってのは、つまりものすごく初期からそうしているからなのだ。

http://www.hemp-revo.net/report/0506.htm

「部民としての忌部には、朝廷に属する公務員である品部(ともべ /しなべ=公的な職業集団)と、忌部氏の私有民である部曲(かきべ)の2種類が存在していた。事績が少なくなっていった中央氏族の齋部とは異なり、品部である各地の忌部には、玉を納める出雲、木を納める紀伊、木綿・麻を納める阿波、盾を納める讃岐などがあった。それらの品部の部民も後に忌部氏を名乗ったことが文献に見られている。こうした地方氏族は随所に跡を残している。」


ちなみに、この銅鐸文化とかのエリアが面白い。畿内と九州に分かれる。

じゃあ、中間の中国地方と海で隔てられた四国はどーなんだよって話ですなあ。面白いです。


まあ、四国はなぜか、海に囲まれているせいか、スルーされているのだ。
なぜスルーされているかはよくわからないが、ある人が「ここに月読命が住んでいたから」とかいう面白いことを言ってました。
だいたい、三貴神といわれるわりに、何も活躍しない。食べ物の神様のところにいって、やばい作り方でできたのを食べさせられて怒って、ぶっ殺したら、死体から野菜がいっぱいできたっていう話だけなのだなあ・・・。

それでたしかに、オノコロ島を作った直後に、四国を作ったので、イザナミ、イザナキ神、月読命を祭る神社が四国にはわりと多い。

絶対に、大和朝廷は何かを隠していて、上書きしてごまかそうとしているのだ(笑)。

というわけで、なんかぐちゃぐちゃなネタを書き連ねただけになってしまいましたが、三角縁神獣鏡は卑弥呼の鏡じゃねーわ! っていう話を書きたかったのでした。

だいたい、台湾人が敵国の中国人から、たとえばなんかプレゼントもらってうれしいかっつーの!! 「もしや、中に爆弾か? いや毒でも仕込んであるのでは?」とかって思ったり、「これは呪いの鏡では?」とかって思いますよ。普通。特に古代人は迷信とかあるんだから!!

ではまたー。

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