見出し画像

プレ皇室研究: 徳島の神社の謎w

調べているばっかりで、さっぱり前に進まない私です(号泣)。
1つ調べるとやばいことがわかるんだもん。げろげろー。

さて、一応どっちかというと邪馬台国四国山上説をとる私ですが、ネットの徳島 阿波古事記マニア、うるせーって思います。

徳島は面白いところなのですが、じゃあ、彼ら「阿波のほうが大和より古いんじゃー」っていうのは、ちょっと違っています。
彼らがよくいう「徳島には、大和と同じ名前の神社があるんだぞー。そして、天の香具山の本家は阿波じゃー」といいます。

天の香具山が2つに割れてっていう話は、すでに伊予風土記で「大和のほうが本家じゃ」ってことで、もう決着がついたのですが、他のパターンが「徳島の神社で、奈良県にある神社と同じ名前のがあるんじゃー。古いんじゃー。阿波の神社の真似したのが、大和じゃー」っていう論評が多いです。

なので、徳島でわりと「古いんじゃ。大事なんじゃ。大和より先じゃ」っていう神社のいくつかをご紹介します。
(けっこう数が多いんで、たぶん2回目ネタがあるかもです。)

「」は引用で、基本、Wikiからの引用です。他はリンクを張っていますので、そこからの引用となります。

1つめー。磐境神明神社
これ、「ユダヤの建物みたいじゃー」と雑誌「ムー」とかにのっていそうな神社ですが、まあ、解説します。
祭神は天照皇大神で、創建時期不明とありますが、実はここは、別の神社のおまけなんです。
白人神社の奥宮。古神道の磐境(古い岩をあがめる原始宗教みたいなもので、岩が信仰の対象です。その岩を意味します。)
それで、白人神社ってのが、創建の説明をみるとこんなかんじ。
「旧村社 伝承によると、仁賢天皇(古墳時代)の時代にこの地に白髪の老翁が天下り、この地を「宮内」と改めるよう発言したのが起源とされる。」
要するにローカルな神社だったのです。
ちなみに仁賢天皇は古墳時代の天皇です。だから、大和朝廷がある程度確立した後です。いばっていうほど、古くはないってことです。
「古い」という場合は、最低でも神武天皇が生まれる前とかでないと古いとは言えません。大和朝廷、皇室はもっと古いからです。

一般にはおまけの神社は、本神社より後に作られます。
だから、ここの磐境神明神社も、古墳時代より古くもないし、別にユダヤ人が来てないとはいわないけど、単純に巨石信仰とか、岩に意味があるから、そういう風に組んだだけかもしれないです。

おや、美馬市の説明がありましたので、見てみましょう。

「穴吹川に隣接する丘陵尾根先端部に設けられた石垣による異形の祠。南北約7メートル、東西約22メートルの石垣による長方形の囲状を呈する。南辺に3ヵ所の入口、北辺に5ヵ所の祠が設けられる。築造年代の詳細は不明だが、石積技法や「白人大明神由来書」の記述から、少なくとも現在の姿については近世以降のものである。成立年代は比較的新しいが、神社遺構として他に類例がなく、貴重な資料である。」

はーい、ぜんぜん古くないし、「近世以降」と言われましたー。
おやおや苔むすのって、早いんだねえwwwww
はい、これで1つ、「ぜんぜん古くねーわ」っていう解決がつきました。

ただちょっとこれが面白いです。わー、忌部氏関係じゃん。

https://library.bunmori.tokushima.jp/digital/webkiyou/45/4528.html

「 白人神社の祭祀(し)の最も大きな特色の一つが、75人の宮人(みょうど)の存在である。宮人は忌部(いんべ)族の子孫とも言われ、古来、白人神社の祭祀の中心を担ってきた。現在も白人神社の神輿(みこし)かきは宮人に限られている。宮人は、特定の家に代々世襲されており、一種の宮座と考えることができる。宮人は、かつては厳しい潔斎をもって祭礼に臨んだものと思われる。
 白人大明神は古来広大な社領を有し、それを確保するために宮人らは武装して防衛に当たった。中世を通じて、宮人は神威を背景に社会的・経済的特権を拡大していった。しかし藩政時代に入ると宮人の武装は解除され、自らの姿を木像に刻して神前に侍(はべ)らし(75体の神像が社殿内に奉祀されている)、平素は農業に従事し、祭礼にのみ参集することになった(穴吹町誌、1071頁)。宮人の家は宮内・首野・田方・調子野・知野・支納の六つのムラに分布している。神社を中心とするこれらの地域が、かつての宮人の活動の拠点であったものと思われる。宮人は現在、転出した家もあり、50人ほどになっている(「穴吹町誌」1071頁に、現在残る宮人の家が列記されている)。」

ついでにこれもあった。すごい、ネット万歳www

「 石垣の大きさは、幅1.5~2.0m、高さ1.2~1.8mで、東西約22m、南北約7mの長方形を呈している。入口は南側に3カ所あり、内部の北側に5カ所の小祠が設けらている。
 当遺構の初見とされる「白人大明神由来書」(1779年)によると、寛保年間(1741~1744)に芝刈りの際に当石垣が発見されたという。由来書の記載には、長さ八間余(約15m)横幅四間余(約7.5m)、東南方向に入口2カ所、内側は長さ六間(約11m)、幅約一間(1.8m)とあり、現在の姿とは若干異なっている。
 また、美馬市のホームページ「市指定文化財/神明神社」には、「昭和30年頃、財宝(源為朝)を捜索して大規模に掘削。特に東方では約15mほど掘り下げたといわれ、これにより崩壊寸前になったため、昭和57年一部修復している。」とある。昭和62年(1987)に市の文化財に指定されているが、それ以前はずいぶんぞんざいに扱われていたようだ。

 案内板には、現在の姿は少なくとも江戸時代後半以降の物で、成立年代は比較的新しいと記されているが、元々の築造年代については明らかにされていない。

まあ、岩蔵なので、原始宗教みたいなものなので、そういうのがあったかもしれないが、今一つ、別に石の積み方を専門家が見ると、そんなに古くないよーってことかもしれない。
それより重要なのは、これは阿波忌部氏が世話しているってことですな。
忌部氏であれば、3,4世紀から活動しているから古いです。

それじゃ2つめ行くよー。
事代主神社
大国主の息子さんだ。出雲の国譲りに出てくる。
「『古事記』において大国主神と神屋楯比売命との間に生まれたとされる。

葦原中国平定において、建御雷神らが大国主神に対し国譲りを迫ると、大国主は美保ヶ崎で漁をしている息子の事代主神が答えると言った。そこでタケミカヅチが美保ヶ崎へ行き事代主に国譲りを迫ると、事代主神は「承知した」と答え、船を踏み傾け、天ノ逆手を打って青柴垣に変えて、その中に隠れてしまった。この天ノ逆手は一般に手を逆さに打つことだと考えられている。」

いや、自殺、入水したってことだろ。やばい。orz

そして、なんとなくやばいのが、明治時代に神様の変更みたいなのがあるのだ・・・。こういう「神様の変更」は追跡しないと、「ずっと昔から同じ神様」っていうことではないのだ。

「この他、三島神社や大山祇神社でも、一部、事代主神を祀っている場合がある。これは幕末から明治にかけての国学者の学説を受け、明治6(1873)年、総本社である伊予の三島神社の主祭神を大山祇神から事代主神に変更したものの、昭和に改めて大山祇神説が浮上すると、大山祇神・事代主神二神同座に改めるなどの変遷があったためである。」

「七福神である、恵比寿様の神紋蔓柏 (つるがしわ) また「三つ蔓柏」とも呼ばれる家紋である。柏紋の一つで三柏の間に三本の蔓が生えた家紋。明治5年に名東県参事井上高格が現在の通町に遷座勧請したと云われており、その際に官命により事代主神社と社号を改称した。同年38年に三丁目の大火で通町の97戸が焼失し、事代主神社はそのとき罹失したが、再建。

元々は名東郡下八万村(現在の八万町夷山)蛭子山の圓福寺に鎮座しており、蛭子神社という名であった。夷山城主である篠原佐吉兵衛の守護神を篠原家が滅亡した後に家臣であった仁木太郎が蛭子山に勧請したと云われている。」

実は蛭子だったのだー。事代主じゃねーじゃん。ああー。
蛭子はイザナギイザナミの最初の子供だが、要はかわいそうに身体障碍者だったのです。川に流されてしまう。ああー、子捨てだ、子捨てだ。orz

しかも、圓福寺について調べてみた。
「阿波秩父観音霊場33番札所。徳島七福神霊場・恵美寿太神。山号は龍寶山。宗派は真言宗御室派。1607年(慶長12年)創建」ってことだ。
ぜんぜん古くなーい!!

ご承知のように真言宗だと平安初期とかであって、古墳時代とかにまでさかのぼるのは無理なのだ。
次に、恵比寿様にあてられているので、蛭子→恵比寿になった時期も調べる。
すると、「「えびす」の最初の記録は平安時代末期の『伊呂波字類抄』(三巻本)である。そこには広田神社の末社として10社が列記される中に「夷 毘沙門」「三郎殿 不動明王」の2社があり、夷と三郎はまったく別の神であった。」

平安時代末期までしか遡れないのであった。
ぜんぜん、弥生時代とかまでいかなーい。


3つめー。
鴨神社。
別雷命が祭られている。天照大神もだ。
これも古いように見えるのですが、由来をみてみましょう。
貞観2年(860年)より以前に京都の賀茂別雷神社を勧請したとされる。旧郷社」
860年よりは古いので、じゃあ、弥生時代にさかのぼれるかっていうと、ぜんぜんーー。
賀茂別雷神社を見てみましょう。

「伝・天武天皇6年(677年)」とあります。山城国風土記に出てくるのだそうでして、おいおい、「風土記」って大和朝廷が「それぞれの国の歴史をまとめてねー」っていったやつじゃん。
7世紀まで来たけど、ぜんぜん遡りませんwww

「創建については諸説ある。社伝では、神武天皇の御代に神山(こうやま、賀茂山ともいう)の麓の御阿礼所に賀茂別雷命が降臨したと伝える。

『山城国風土記』逸文では、玉依日売(たまよりひめ)が加茂川の川上から流れてきた丹塗矢を床に置いたところ懐妊し、それで生まれたのが賀茂別雷命で、兄玉依日古(あにたまよりひこ)の子孫である賀茂県主の一族がこれを奉斎したと伝える。丹塗矢の正体は、乙訓神社の火雷神とも大山咋神ともいう。玉依日売とその父の賀茂建角身命は下鴨神社に祀られている。天武天皇6年(677年)に社殿が建立されたとする。」

7世紀を「古い」とかいうの、やめちくれええええーーーー!!


疲れましたので、今日はここまでにしておきます。
はあ、阿波の「阿波から日本が始まった」とかいう人、もっとちゃんと歴史の記録を追いかけろよ。
ぜんぜん、古くねーじゃん。

ということで、私の考えでは、おもっきり大和朝廷の罠にはまってるのだと思います。

皇室は、九州北部にいた。伊都国の王様だった。奴国は親族の王様をしていた。水田で農耕もしていたが、中国・朝鮮半島と貿易とかもしていた。
神武天皇のときに畿内に来て、大和朝廷になった。中央集権制度を始めた。
邪馬台国は、四国山上説で、剣山や石鎚山山腹に町があった。
でも、伊都国はトップの神武天皇が東征してもぬけの殻で、たぶん代理人たちが政治をしていて、邪馬台国の属国レベルに落ちた。
大和朝廷は、あちこちを国の制度にいれていったが、当然、四国も狙っていた。出雲や東北は武力を使ったが、なんせあちこちなので、手が回らないのもあって、軍事で征服ではなくて、「静かなる侵略」を邪馬台国の末期(イトになってから)にしかけた。
それは息のかかった忌部氏やいろんな皇室の子孫や家来の子孫などを四国に移民させて、じわじわと侵略させることであった。
そのために、1つは、金の生る木である徳島の水銀鉱脈も支配し、大和朝廷になってからは、国衙を置いて、邪馬台国の集落を1つずつ落としていった。だいたい20か21ほどの属国があったので、それを落としていった。武力なしで。たぶん移民と婚姻でだ。
そのときに、大和朝廷の息がかかった神社も、支社を四国に作らせた。だって、皇室の子孫や大和朝廷の幹部の渡来人豪族とのつながりを維持するために、高天原関連の神社は、配置したかったからだ。

大和朝廷としては、あちこちに神社があると、そこで休憩をさせてもらったり、武器を隠しておいたり、戦争のためにお金などを置いておきたかったのだ。それで、多くの神社は天照大神の代理の鏡を持っているし、剣などを奉納された神社もある。
要は、皇室流倉庫、活動拠点みたいなものだ。
(上で引用したように、最初は忌部氏も武装していたのだ。要は、地元民に反対されたときに、一応戦えるようにしたのだ。でも、幸い忌部氏は、おそらくいろんな作物の栽培方法を現地民に教えてあげたので、戦争とかにならなかったのだ。頭いい!!)

だから、忌部氏が移住した後に、じわじわと神社を配置した。

上記の徳島の神社が、どいつもこいつも、まったく弥生時代にはなくて(兵庫県の伊弉諾神宮だけは、別でおそらくそのまま本物)、早くて古墳時代、奈良時代なのは、「コピーされた、分家の神社」でしかないからだ。
これは100-300年ほどかけて塗り替えていった。
お寺もセットでできているので、これは空海とかが協力して、「うちもやりますから、支援してください」といって四十八か所、お寺を作っていったのかもしれない。わりと国衙後に作られているし、やはり奈良時代が多い。まあ、仏教伝来したの、聖徳太子の時代だからなあwww
四十八か所のうち、何件かは聖徳太子発願になっているのもある。まあ、これはブランド借りただけかもしれないが・・・。

それも知らんで、阿波マニアは、「阿波には古い神社があるんじゃー。大和朝廷は実はここにあったんじゃー」と思い込む人が出てきたのだ。
たぶん、先祖は大和朝廷が嫌いで、畿内から逃げた人かもしれん。


AI,脳科学、生物学、心理学など幅広く研究しております。 貴重なサポートは、文献の購入などにあてさせていただきます。 これからも、科学的事実を皆様に役立つようにシェアしていきたいと思います。 ありがとうございます!!