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プレ皇室研究: 井原鑓溝遺跡

もう1つ、やっかいな遺跡を忘れてましたー!!
(ちょっと修正しました。)

井原鑓溝遺跡

これ、Wikiにあまりないので、個人の人のブログをリンクします。

「福岡県前原市の井原鑓溝(いわらやりみぞ)で、
弥生時代後期(紀元1世紀ごろ)の中国鏡が見つかったことが、同市教委の調査でわかった。江戸時代に出土品の記録が
残されていながら未発見の伊都国王墓「井原鑓溝遺跡」確認へ向けて重要な手がかりになるとみられる。
出土したのは「方格規矩(きく)四神鏡」1枚分で、約10片に割れているという。江戸時代の学者が記した「柳園古器略考」などによると、同じ型式の鏡21枚が出土したという。同市教委によると、出土地点は道路の拡幅工事現場で、鏡は水田の1メートルほど下の穴から出土。一緒に約170個のガラス玉も見つかった。周囲には16基の甕棺墓(かめかんぼ)や石棺墓も確認された。調査指導委員会の西谷正・九州大名誉教授は「王墓の所在地が絞り込めてきた」という。 」

一度、江戸時代に発見されたが、当然昔のことなので、ちゃんと保存されず、どうなったかよくわからないままになっていたのだ。
それで、やっと現代になってから、調査が入ったら、鏡が21枚も出てきたのであった!!

前に書いた伊都国、奴国の王、王妃は、皇室の先祖!
っていうネタなのだが、1人だけ、墓に比定できる王様がいなかったのだ。


それは、山幸彦で(”古事記”で”海幸彦山幸彦”のところに出てきますが、弟だけど、皇室の系譜を継ぎます)、ウガヤフキアエズの父です。奥さんは、豊玉姫です。出産のときに、フカみたいになったので、びっくりしたというエピソードがあります。要するに、奥さんは海神の娘なので、船主や貿易商の父だったわけです。例えば、今だと日本郵船の社長の娘だとか、伊藤忠商事の娘ってかんじでしょうか。
フカというのは、「でっかい船」っていう隠喩があるそうです。

井原鑓溝遺跡は、紀元1世紀ごろ弥生時代から古墳時代前期に相当するそうです。
紀元1世紀であれば、新旧でいうと三雲南小路遺跡で紀元前1世紀の、後で、かつ平原遺跡 紀元1世紀と同じ時期か、あるいはその間ということになります。
こういう集落は、ゆるーっと始めて、ゆるーっと、または急に終わります。急に終わるのは、災害で町が捨てられたか、戦争で負けまくったかです。

ですので、これはなかなか、時期的にはぴったりな気がします。
そして、糸島市周辺なので、大変近いです。たとえば、舅と婿・嫁の住む位置としては、悪くない「スープが覚めない距離」ってかんじがしますね。

さて、肝心の出土品を見てみますと
武器は銅剣と鉄刀が出土しています。3種の神器の1つは充足しています。また、鉄器が含まれますので、ちょっと新しいです。紀元前ではないってことでしょう。
鏡は上記のように、銅鏡が出ていますし、21枚といった「王様」にふさわしい数です。
ちなみに種類は、前漢鏡で、時代はちょうどよいですし、鏡の種類は内行花文鏡と、方格規矩鏡なので、平原遺跡と同じ種類です。サイズは中型のが含まれます。これは、平原遺跡のちょっと前という意味では、ありかなと思います(大きい方がやはり作りにくいため)。

そしてもう1つ、珍しいものが出ています。
巴型銅器とありますが、原田大六先生は「盾ではないか」といわれています。
他の墓はほぼ、剣は全部出ています。また古い分は、矛なども出ています。要するに、攻撃的武器です。
防御武器はありませんが、この巴形銅器が盾であれば、防御武器になります。あまり大きいと重くてもてないし、真四角ではないのは、半分祭祀というか、飾り的なのだと思います。

他の出土品です。
有柄銅剣 鉄刀 前漢鏡35面 勾玉13個 管玉 銅矛,銅戈 巴形銅器 金銅製飾金具
とまあ、3種の神器がここでも揃いました。また、よくわかりませんが、金銅製飾金具とあるので、これは冠の飾りだとか、胸飾りなどの一部かもしれません。
ちなみに、三雲南小路遺跡の伊都国王、王妃の甕棺からは、金属製の飾りが出ていまして、どうもこっちは中国からもらったものらしく、「王様」と認定されていたようなのです。つまり、それと同じなら、同じように「中国から王様だと認定される」ことになります。

さて、巴形銅器の話に戻りますが、これが盾だとすると、例の「倭国大乱」を思い出されます。

魏志倭人伝を思い出しましょう。Wikipediaからの説明です。
「魏志倭人伝によると、倭人の国は多くの男王が統治していた小国に分かれていたが、2世紀後半に小国同士が抗争したために倭人の国は大いに乱れた。そのため、卑弥呼を擁立した連合国家的組織をつくり安定した。」
卑弥呼は247年(または248年説あり)に亡くなっています。188年くらいに女王になったらしいです。そして、その前、8-12年くらい倭国大乱が続いたらしいです。
188年から、10年を引くと、178年です。
2世紀ですが、そのちょっと前から、なにか小氷河期の可能性もあったらしくて、食料不足になっていてごたごたしていたのだと思います。

さて、当時の男王というと、次の2人が中国の史書に記録があります。
「57年に後漢の都洛陽に遣使して漢委奴国王印を贈られた委奴国王」
「107年に後漢に遣使した倭面土国王帥升等)」

前半は、奴国の王である。
もしかしたら、山幸彦の兄、海幸彦かもしれないと以前、書いた。


107年のほうの帥升であるが、これはどうも皇室とは関係ない、縄文人の王のように思われる。なぜかというと、鯨面だったらしくて、刺青するのは基本的に縄文人で、弥生人・渡来人の皇室関係者はしないのだ。
(これは、前に中国には宮刑という刑罰があって、刺青するのがその刑罰の1つなのだ。まあ例外はあって、武人のときだけかな。)

皇室の先祖の家系図です。

山幸彦(火折尊)がちょうど、おそらく伊都国に住んでいたと思いますし、1世紀終わりか、2世紀頭くらいなら、西暦100年前後で、「倭国大乱」にひっかかりそうな年代です。
だから、伊都国王も剣以外に武装しないといけなかったと思われます。なんせ、実戦と祭祀と両方です。
ついでに、山幸彦と海幸彦は争っていますが、伊都国と奴国でもケンカしたのかもしれないです。

あるいは、ちょっと時代的には苦しい気もしますが、ちょうどこの兄弟のときと、玉依姫・ウガヤフキアエズの時代に、「倭国大乱」がひっかかったのかもしれないです。
ウガヤフキアエズはどうも若死にしていますので、もしかしたら、戦乱にまきこまれたのかもしれないです。また、その戦乱で、遺体がわからなくなっていたら、墓がそれっぽいのがないことや、大きい墓が作られなかったこともわかります。戦乱で、戦費や人手の都合上、大きな墓を作っている暇も金もなかったのです。

だとすると、従来は「南九州は地震・火山災害がひどいから、東征した」という神武天皇は、「九州の騒乱が多いから、もううざくなって、見捨てて東征した」というのもありかもしれないです。

なんせ、この神武天皇や、皇室の先祖のほうが、邪馬台国の卑弥呼より、古いのですから。

まあ、他にも倭国大乱には理由があるし、九州ー山陽地方ー四国と大変広域のようです。

もうちょっと研究がいるかなと思います。
「また、弥生系渡来集団が九州から畿内への拡大過程で各地に先住していた縄文系在来集団との間で摩擦、すなわち倭国大乱が起き、渡来系集団は在来集団の居る各地で防御のための環濠集落や高地性集落を作ったとの説(卑弥呼の国:冨川光雄など)もある。この説によれば、弥生系渡来集団が近畿地方にまで到達した際に両集団が協定して倭国連合政権を作り、卑弥呼邪馬台国女王をその連合政権の王に推戴して倭国大乱は治まったとする。」
とありまして、前半部分の「弥生渡来集団が九州から畿内に移動」という意味は、まさに神武東征の「東征」にあたるのかなと思います。

有名な吉野ケ里遺跡は、佐賀県で、糸島市から見たら、わりとすぐ隣です。
このため、戦っていた相手は吉野ケ里の集落の王かもしれないです。吉野ケ里からは、たしか戦争で傷つけられた遺体が出土していたはずです。
九州北部は、戦乱に巻き込まれやすいのです。
平和な縄文時代はもう稲作に移っており、稲作も毎年安定的とは言えませんから、どこかの国が稲・食料が足りないなら、近隣の集落に奪いにいくこともあります。

おまけ
コノハナサクヤヒメと岩長姫を祭る。もとは大きかったが、いろいろと財産を取られてしまったらしい。これも、プレ皇室の故郷、糸島市にある。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E7%9F%B3%E7%A5%9E%E7%A4%BE




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