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なんで奈良県に吉備国の土器とかあるのかなあ?

唐古・鍵遺跡っていうのがあるのですが。
前にちょっとバーチャルミュージアムを紹介したかも?

それで面白いのが、吉備国の土器が奈良県で出土するって話。
まあ、他の地域のも出土するので、交流地域がわかるのですが・・・。

それで、吉備津彦っていう人がいるんですな。

「吉備津彦命(きびつひこのみこと)は、記紀等に伝わる古代日本の皇族。

第7代孝霊天皇皇子である。四道将軍の1人で、西道に派遣されたという。

あ!!欠史八代だ!!

「『日本書紀』『古事記』とも、「キビツヒコ」は亦の名とし、本来の名は「ヒコイサセリヒコ」とする。それぞれ表記は次の通り。

『日本書紀』
本の名:彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと)
亦の名:吉備津彦命(きびつひこのみこと)
『古事記』
本の名:比古伊佐勢理毘古命(ひこいさせりひこのみこと)
亦の名:大吉備津日子命(おおきびつひこのみこと)」

つまり吉備津彦っていうのは、一種の「あだ名」なんですな。
そして西道って、要するに山陽地方なので、岡山県の吉備国地域の担当ってことだ。

「同書崇神天皇9月27日条によると、派遣に際して武埴安彦命とその妻の吾田媛の謀反が起こったため、五十狭芹彦命(吉備津彦命)が吾田媛を、大彦命と彦国葺が武埴安彦命を討った。その後、四道将軍らは崇神天皇10年10月22日に出発し、崇神天皇11年4月28日に平定を報告したという[1]。

また同書崇神天皇60年7月14日条によると、天皇の命により吉備津彦と武渟川別は出雲振根を誅殺している[1]。

『古事記』では『日本書紀』と異なり、孝霊天皇の時に弟の若日子建吉備津彦命(稚武彦命)とともに派遣されたとし、針間(播磨)の氷河之前(比定地未詳)に忌瓮(いわいべ)をすえ、針間を道の口として吉備国平定を果たしたという[1]。崇神天皇段では派遣の説話はない[2]。」

これ、崇神天皇だといったい何歳まで吉備津彦は生きてるんじゃってかんじになるかなあって思いました。まあ、天皇1代が5年ずつとかならありえますが・・・。3代くらい後じゃん???

孝霊天皇って、たしかに田原本にいたから、たしかにこの唐古・鍵遺跡の近くです。宮が田原本にあったらしい。


ついでに、河内湖。
湖ではなくて、どっちかというと湾だと思うが、だんだん土砂が堆積していったので、海が埋め立てられていったのだ。時間ってすごいですなあ。
生駒山の麓近くまで、海だったらしい。


まあ、吉備津彦に関係なく、瀬戸内海の吉備国は前から、ちゃんと大国状態で、瀬戸内海もあるから、船でいろんなものを運ぶのにはちょうどいいので、畿内にまで売りに行っても不自然ではない。


ああ、これは鳥取県のだ。
土器分布の地図があったらいいのになあ・・・。

そういえば、こういうでっかい土器というか、埴輪なのかわからんが、古墳の周りに飾ってあったやつがありました。


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