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プレ皇室研究: 日向は糸島市にあった! +三種の神器研究

これが、私が皇室以前の系図と、主な居住地をあらわした図である。

(ちなみにウガヤフキイアエズは、玉依姫の夫で、平原遺跡の女王は、玉依姫だといわれている。しかも、面白いのが、「日向」っていうのが、宮崎県じゃなくて、平原遺跡から見える山のことらしい。だったら、これで「えらい、距離が遠いなあ」っていうのが解決する。)

うっひー!! 井出先生の直接語られる動画があるぞ!!
素晴らしい!! これはぜひみなさんにみてもらいたい!!


吉武高木遺跡から、三種の神器の古いタイプ(鉄剣ではなくて、銅剣)が出ている。
しかも、墓が「集団墓」から「個人墓」にいく途中過程的な位置づけがあるのだそうだ。
もっとあとの、ちゃんとした「王様が1人(あるいはたまに王妃とセット)ででっかい古墳に埋められる」のではなく、村人と固めて集合墓だったっていうことだ。それなりに特別扱いされているが、「王様」というより、「村長」や「市長」程度ってことだろう。古代なんだから、人口だって千人も住んでいたら、立派な集落だ。

大型の建物跡もあるのだ。つまり、王宮に近い。

ではこの遺跡の時代はどうなっているのだろうか?
図を引用する。
だいたい2000年前は、紀元0年だから、その何世紀も前からあるのだ。


これ、最初の皇室の系図についていうと、「神代時代」なのだ。

私はずっとそれは、皇室の先祖が中国から日本に来る前だから、きっと中国大陸(もしくは朝鮮半島)にいたときではないかなと思っていた。
つまり外国時代をごまかすために、空想の「高天原」を作って、そこにいたことにしたいんじゃないかなと思っていた。

しかし、紀元前だとすると、皇室の先祖のイザナギイザナミより前は、実はこういった九州北部、たとえば早良王国でそれなりの豪族、村長レベルだったのが、皇室の先祖ではないかなと思われる。
つまり、さらにもっと前に、中国大陸とかにいた時代はより古くなるのだ。
もしかしたら、それが紀元前660年じゃなかろうか???
→その後の私の調査で、伊弉諾がだいたい紀元前150年あたりで、神武天皇が橿原宮で即位したのが、181年とわかりました(干支で計算できる)。
つまり、紀元前2世紀から、紀元2世紀の400年ほどが、伊弉諾伊邪那美時代から、神武天皇の時代ということになります。
(ここでは省きますが、だいたい漢鏡をもらっているので、その様式で、何世紀かわかるのです。)

これが皇室の系図ですが、神武天皇以降のみが書かれています。

ちなみに仲哀天皇と神功皇后は、古代剣に刻まれた記述で、どうも372年だとわかっています。14代めで、4世紀頃なわけです。

天津神、つまり皇室のさらに先祖で、高天原一族ですが、このようになっています。Wikipediaより引用します。

「天津神
別天津神
造化三神…天之御中主神、高皇産霊神、神産巣日神
宇摩志阿斯訶備比古遅神、天之常立神
神世七代
国之常立神、豊雲野神、宇比地邇神・須比智邇神、角杙神・活杙神、意富斗能地神・大斗乃弁神、淤母陀琉神・阿夜訶志古泥神、伊邪那岐神・伊邪那美神
主宰神
天照大御神
その他
少名毘古那神、天忍穂耳命、邇邇芸命、思金神、建御雷神、天手力男神、天児屋命、天宇受売命、玉屋命、布刀玉命、天若日子、天之菩卑能命など」

この神世七代っていうのが、こういった早良王国の王族だったのではないか?
高天原は、早良王国の土地ではないかな???? →というか、福岡県内を2,3か所、移住しているようです。そのうちの一番新しいのが、糸島市で、その前が、春日市と福岡市です。さらに前は朝倉地域とか、その周辺でして、いわゆる早良平野の周辺なのです。

そして、その前の別天津神こそが、中国大陸か朝鮮半島にいた、皇室の先祖ではなかろうか?
→天皇のハプログループは、グループDで縄文人とわかっています。つまり、帰国子女みたいなもので、出戻り縄文人なのです。そして、たぶん朝鮮半島南部が、有力候補です。

なんとなく、さっきの時代区分でいうと、紀元前2-4世紀くらいだから、ちょうどいいかんじなんだなあ。


訂正すると、最初の図はこんなかんじになる。
なんとなく、「実はけっこう100年も200年も九州にいたんやけど、はくつけのために、高天原ってことにしとくわ」ってかんじがでてきました(苦笑)。
おい、いったいいつから、日本に来たんだ??? 皇室の先祖は???
→だいたい紀元前180年とか150年くらいのようです。
(前漢とかの時代だし、ちょうど青銅器、鉄器、絹などが入って来た時代です。何度か、渡来人が来ていたのですが、皇室は出戻り縄文人で、日本に戻ってきて、中臣氏あたりが渡来系です。ハプログループOグループとわかっていますので。)


(それで考えると、イザナギイザナミは中国大陸から、黒潮にのって沼島(淡路島の近く)に来たんじゃなくて、単純に「九州以外にもっといい土地探して来い」っていわれて、船にのってでかけたのが、淡路島じゃないのかな???)


さて、他に気になるのは、三種の神器である。
さっきの吉武高木遺跡の3号墓から出た三種の神器であるが、これは古いので、剣は銅製なのだ。のちに、鉄剣になっていくのだが。
そして、鏡は八咫鏡よりもっと古いデザインぽい。
最後の勾玉だが、これもすべすべした丸いよくある勾玉ではなくて、獣形というらしく、ちょっとぎざぎざなところがあるのだ。

こちらが写真なので、引用しますが、勾玉がちょっと変わっているのがわかりますよね。


さて、三種の神器は、剣+勾玉+鏡なのですが、実はこれ、中国には二種の神器だったらしい。

https://blog.goo.ne.jp/isaq2011/e/931adc74167ca3368e27e592652e8ec7

なにせ勾玉は日本固有デザインであって、中国にこういうデザインはない。
したがって、皇室の先祖が中国大陸出身で、中国の文化を引き継いでいると、剣+鏡の二種の神器は持ってきたが、なんとなく日本に来てから、勾玉分が追加されたのだ。
そりゃあ、中国にも緑色の石は出土するが、日本にも翡翠や翡翠の親せきみたいな鉱物はあるので、それで宝石を作るときれいだってことは古代人でも気に入ったのだろう。


ちなみに一番古い勾玉は、縄文時代にもあったらしい。
だから、皇室の先祖は、日本に来てから、勾玉を組み入れたっていうことになる。

「その形状は、元が動物の牙であったとする説や、母親の胎内にいる初期の胎児の形を表すとする説などがある。鈴木克彦は縄文時代極初期の玦状耳飾りが原型であるとの説[2]をとる。

日本の縄文時代の遺跡から発見されるものが最も古い。朝鮮半島へも伝播し、紀元前6世紀から3世紀初頭の無文土器時代にアマゾナイト製の勾玉が見られる。縄文時代早期末から前期初頭に滑石や蝋石のものが出現し、縄文中期にはC字形の勾玉が見られ、後期から晩期には複雑化し、材質も多様化する。縄文時代を通じて勾玉の大きさは、比較的小さかった。

弥生時代中期に入ると、前期までの獣形勾玉、緒締形勾玉から洗練された定形勾玉と呼ばれる勾玉が作られ始め、古墳時代頃から威信財とされるようになった。1993年(平成5年)に東京都板橋区四葉遺跡の弥生末期の方形周濠墓から長さ7.4センチメートルのヒスイの勾玉が出土している。

魏志倭人伝によれば、邪馬台国女王の臺與から魏への進貢品に「孔青大句珠二枚(穴が空いて曲がった青い大きな玉2個)」があり、ヒスイ製勾玉であろうと推測されている(進貢時期は248年-266年の間)。」

さて、三種の神器は、Wikipediaによると必ずしも皇室の唯一扱いでもないようだ。
ただ、献納しているので、赤の他人が三種の神器を作って、皇室の先祖にさしあげたってことはありえる。

「『古事記』ではアマテラス(天照大御神)が天孫降臨の際に、ニニギ(邇邇芸命)に「八尺の勾璁(やさかのまがたま)、鏡、また草薙(くさなぎの)剣」を神代として授けたと記され、『日本書紀』には三種の神宝(神器)を授けた記事はなく、第一の一書に「天照大神、乃ち天津彦彦火瓊瓊杵尊(あまつひこひこほのににぎのみこと)に、八尺瓊の曲玉及び八咫鏡・草薙剣、三種(みくさ)の宝物(たから)を賜(たま)ふ」とある。

古代の日本において、鏡・剣・玉の三種の組み合わせは皇室特有のものではなく、「支配者」一般の象徴であったと考えられ、仲哀天皇熊襲征伐の途次、岡県主の熊鰐、伊都県主の五十迹手らは、それぞれ白銅鏡、八尺瓊、十握剣を献上して恭順を表している。また景行天皇に服属した周防国娑麼の神夏磯媛も、八握剣、八咫鏡、八尺瓊を差し出した。また糸島市平原遺跡福岡市吉武高木遺跡壱岐市原の辻遺跡佐賀市の七ヶ瀬遺跡からは鏡、玉、剣の組み合わせが出土している。

儒学伝来以後、「」は「知」、「勾玉」は「仁」、「」は「勇」というように、三種の神器は三徳を表す解釈も出た。」

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E7%A8%AE%E3%81%AE%E7%A5%9E%E5%99%A8#

佐賀市の七ヶ瀬遺跡からも、三種の神器が出土。


https://www.city.saga.lg.jp/site_files/file/2021/202111/p1fk6tb5vt1hivlji2gt1e1qfef4.pdf

こんなかんじ。ポスターに写真がありますね。


しかし、三種の神器あるいは二種の神器が、道教思想から来ているとすると、道教っていつから、発生したんだということになりますね。

「道教は後漢末頃に生まれ、魏晋南北朝時代を経て成熟し定型化し、隋唐から宋代にかけて隆盛の頂点に至った[3]。」

とあります。漢は、前漢と後漢がありますので、西暦にするとこんなかんじ。

漢(かん、拼音: Hàn)は、中国の王朝である。通例、前漢(紀元前206年 - 8年)後漢(25年 - 220年)の二つの王朝(両漢)を総称して「漢王朝」と呼ばれる。



あれ???? ちょっと待ったー!!
前漢ならわかるが、後漢だとすると、日本の三種の神器のほうが、早くないか???
吉武遺跡群のほうが、紀元0年からちょっと前とすると、そっちのほうが早いじゃん!!
いや、後期に発見されたのだろうか???

ちょっと謎の結論になりそうです。

やばいので、また引き続き調査します。
とりあえず、今日はここまでー。



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