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ノリの違いに気づいてしまった|教会やめたい理由

前回ちょっと触れた「俺だけ一人で熱くなってる?」のことなのだけど。

この話は私の教会遍歴にかかわってるので、またかという感じですがさらに自己紹介。

聖書主義

私は福音派を名乗る教会で育ってきました。両親が福音派だったので生まれる前から。
幼稚園に上がる頃に引っ越したけどやっぱり福音派で、その教会の教会幼稚園、教会学校で育ち、洗礼を受け、結婚式も上げました。

あとで気付くのだけど、この福音派で「と書いてある」主義を叩き込まれたのだと思う。
「と書いてある」はある日(今からだと30年近く前か)の礼拝の、牧師の説教の題名だったのだけど、いまだにおぼえてるくらい「これだよなぁ」と思って、以来「と書いてある主義」を名乗っています。

昔から福音主義とか聖書主義という言葉には疑問を感じてました。
「それ言ったら、キリスト教はみんな福音を大事にしてるし聖書を大事にしてるんじゃないの?」と。
ところが、どうやらそうではないらしいと気付いたのは、バプテスト主義の教会に来てからでした。

なんか違う

身バレ予防のため「バプテスト主義の教会」という言い方をしてきましたが、ここからは少し批判的な言い方が増えるので、分母が大きいままだとよくない気がします。
私が今いるのは、日本バプテスト連盟(以下「バプ連」と略します)の教会です。

ひょんなことから約20年前にバプ連のある教会とつながりができて、何年かして客員教会員に、その後に正式に転籍したのですが。
その後にちょくちょく違和感を感じてきたのが、少し言語化できて。

乱暴な言い方になりますが、バプ連て「人に聖書を従わせる教会」なんだなと。

たとえばバプ連の教会学校教案誌である『聖書教育』は、テーマというか主義主張ありきでそれにあわせた聖書箇所を選んでる感じが露骨なんですね。
『聖書教育』にがまんならなくなってきたのも、この教会やめようかと思う理由の大きな一つになってるので、これは言語化して整理する必要があると思ってるけど。

バプ連やバプ連の理事会が連発する声明のたぐいも、とってつけたように聖書の言葉を最後に添える。あれはほんと意味がわからないです。
特に政府や総理大臣や国会議員にあてた声明で聖書を引用するのって、ふだんは政治に対して「せーきょーぶんり!」と叫んでるのに、「キリスト教の経典に書いてあることに従え」ですかw
そもそもバプテストの「政教分離」って、バプテスト発祥のイギリスで国と英国国教会のタッグに迫害された歴史から「われわれ教会は政治と手を結ぶことはしない」だったんじゃないの?

都合のいいときに、都合のいいように、聖書を振りかざすバプ連を見てると、「あ、これ違う宗教かも」とさえ思うようになってきたんですね。
そりゃそうですよね。宗教の聖典をどう扱うかが、私の今までと真逆なのだから。
私は、自分を聖書に従わせるのがイエス・キリストの道だと思っている。
バプ連は、人に聖書を従わせるのがキリスト教だと思っている。

私は「福音派とバプテスト主義のどちらが良いか、どちらが正統か」を客観的に論じる学も知識もないしその立場でもないです。
それにここまで「バプ連は」と決めつけてるけど、私の周囲には、今行ってる教会も含めて福音派に近い考え方もあります。バプ連は「浸礼を重視する」ということ以外は共通点がないくらい幅が広いようです。

ただ、出身教会で「聖書は神の言葉」を叩き込まれた私にとって、聖書の扱い方がまったく違うんだなと感じました。
それを端的に感じるのは、たとえば「第二イザヤがー」とか「パウロ書簡と呼ばれこれらの手紙の記者はー」という言い方をバプ連ではしょっちゅう聞くことですね。「どのがこれを書いたのか」を非常に重視するんだなと感じます。
私には、イザヤ書は最初から最後まで「から私への言葉」なので、それを伝えたのがアモツの子イザヤなのかどうかがなぜそこまで大事なのかわからないんです。

バプ連には福音派に近い教会もあるとはいえ。
東京バプテスト神学校の公開講座に行ってみたら、ある日に講師が「ここには処女降誕や復活を信じている人はいないと思いますが」と言い出したのにも驚いた。あっけにとられすぎて「私、信じてますけど」とも言えなかった。
キリスト教にはリベラル神学というものがあって、処女降誕も復活も信じていないクリスチャンや牧師がいる、ということは情報としては聞いていたけれど、まさか実在するとはとw
しかも神学校でそれを教えているんだ。

個別の教会では福音派に近いところもあるとはいえ、神学校がリベラル神学というのではね。
あとで聞いたところでは、バプ連には神学校が3つあるけれど東京バプテスト神学校はもっともリベラル色が濃いのだそう。でももう「バプ連はリベラル」という印象にはなってしまった。

どうりで、やたら「キリスト教にもいろいろな考え方が」というわけだ。
でも「私の神は、処女懐胎も死者の復活も可能」という人と、「私の神は、人間の合理精神に合致することしかできない」という人って、もう別の宗教じゃないですか。
リベラルに言わせれば、私みたいなのは「合理精神に劣る、聖書に書いてある通りにしか読めない、愚かで未熟で無知蒙昧なクリスチャン」なんだろうけど。私は十字架の言葉の愚かさを誇るということを叩き込まれてきてるので、これはもう仕方ない。

ちなみに、バプ連では使徒信条を否定しています。「処女マリアより生まれ」「死人のうちよりよみがえり」といったことに賛成できないからだそうです。
使徒信条などの基本信条って「私たち」の中から「異端」を排除するための線引きだと思うんだけどね。「私たちはこれらを事実と認める宗教であり、これを事実と認めない人はそういう人たちだけで別のところでやってください」っていう。西方教会と東方教会が決別したのだって、フィリオクエ問題という、ニカイア・コンスタンティノポリス信条にたった一語を加えるか加えないかで「私たちはあなたたちとは違うことを信じている宗教です」となったわけじゃないですか。
まして、「処女マリアから生まれ」「死人のうちからよみがえり」を否定するために使徒信条そのものを使わない教会って、私の感覚だと「キリスト教にはいろいろ」の範囲を飛び出してると思う。

じつは「教会の信仰告白」の中に使徒信条と同様のことを盛り込んでる教会も多いらしいけど、東京バプテスト神学校の講師はそういう教会を批判してましたよw
「処女降誕や復活を信じるなんて許せない」なんだろうかなぁ。

各個教会主義へのあこがれ

あくまでこれはバプ連と私のあいだに「違い」があるということであって、どちらが「間違い」かという話をするつもりはありません。
でも、信仰のノリが違い過ぎるなあと思うようになってきて。

ただ、私がバプ連の教会への移籍を最終的に決めたのは、バプテストは各個教会主義を大切にすると聞いてたからなんですね。教団教派の考えがどうだろうと最終的には大事なのはその個教会の考えだという。
だったら、バプ連が聖書を都合よく使おうとリベラルだろうと、私が移籍したこの教会と私が合うならそれでいいじゃないかと。

ただやっぱり各個教会主義というのも、タテマエとまでは言わないまでもやっぱり「連盟ありき」なところが多分にあって。
各個教会主義というのは外から見たときの「隣の芝生」だったのかなって。

だったら私にとって、バプテストでなければならない理由がひとつなくなるのだけど。
どれくらいの各個教会主義なのかは、これからよく考えないといけないなって。

そりゃ、こだわるよ

「なぜ処女降誕にこだわるのか」とも言われました。
違うよ。
私がこだわってるのは「私の神は処女降誕程度のこともできない神かどうか」なんだよ。

聖書に「神にはなんでもできないことはない」と書いてあるのに、そこに「ただし人間の合理精神の範囲で」と但し書きをつけることの是非だよ。
結局これって、
「と書いてある、だから」を目指したい私と、
「と書いてある。だけど」という人たちとの違いなんだろうな。

今回の記事を書いていて「あれ?もう違う宗教ってくらいなのに、なぜここにいるんだっけ?」が強くなってしまった。
ぼくは自分がまったくのダメクリスチャンだという自覚はある。だからこそ、ちゃんと教会生活したいし、ちゃんと礼拝したいだけ。でもここにいたらどうなのかなぁ。

「私にとってバプ連は、違うキリスト教という以前に違う宗教かも」という内容になってしまったけど。
バプ連の中の今いる教会でも、礼拝観や聖書観がけっこく違うことに気づいてしまって。
少し前までは「それって、こうじゃないんですか」「こうあるべきなんじゃ、こういうところを目指すべきなんじゃ」と言ってきたのだけど、でも「あれ?俺だけ熱くなってるよね?」と気づいてしまって。それについても言語化していくつもりだけど、いい加減長くなったので今日はこのくらいで。

誰かに怒られるかな。
リアルの私を知ってる人に読まれたら確実に私だと気づかれそうではある。

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