見出し画像

『ポートレート R.I.P KOHTARO』

今回ある方がこの世を去りました。
非常に野心家であり、人間味があり、素直だけど何処か正義のために身を削って人のためにただただ真っ直ぐに生きる、そんな人でした。

少し自分を見ているかのような方でした。
もう一つ、その方な僕の教え子の女性のお兄さんでした。
当時その子はお兄さんとどこか似ていて、でも中々自分の想いを表現したり伝えることが苦手でした。

でも確かに何か内に秘めた想いを持ち、何かを成し遂げたい姿は確実にあり、気が付けば今は遠く離れた地で、同じ指導者として多くの未来を後押しする立場となり、泥臭く生きています。

それはきっと少なからず、お兄さんの影響もあったと思います。

世の中は不条理で、ただただ真面目にやっていれば必ず報われたり、夢がら叶う世界ではありません。
時にズルく、騙し、叶う裏で打ち崩される人間がいる。そんな世の中です。

でも起きたことは戻せなく、あとは生きていかなければいけません。

でも、生きた人が伝えたかったことが一人でも伝わっていたならば。
その一人である僕は不器用でも、また次の人生を生きるものたちへ伝えていきます。

この身を全うした彼のためにも、これより先に打ち込んだ文章を発信したからと言って、何かが解決する訳ではないですが、今リアルタイムで悩む方にでも届けばそれだけで良いです。

こうたろう、お疲れ様。
ななこ、これからまた生きていこう。

以外、想いそのままの文章です。


一人の一般と呼ばれる人の死は地球からみたら米粒にも満たない。
それをその人と関わりが無い人には、届かないし、影響はほとんど無い。
3日ほど夜を明かしたら、この世の数字ではすでに72時間が経過する。
普通に暮らしていたら、72時間前のことはほぼ忘れていることがほとんど。
時間は数字という無形の括りでいくと、この世を生きる限り、一つひとつ数字は積み重なって、経過していった数字たちはこれまでの数字たちに挟まれ記憶として薄れていく。

何かを失って初めて、その記憶と尊さは鮮烈に呼び起こされる。
この世の定めとしたら都合が良く聞こえるが、きっとそんなもの。
それまではただの記憶の一つひとつでしかないのに、急に儚さと虚無感と共に全身に言い表せない違和感を巡らせてくる。
生きていることに慣れ過ぎるが故の残酷さになる。

人が有形としての別れのその時には、骨になるまで一応顔は見られるが、もうただの物体でしかなくなる。
人と人という、物理的なやりとりが不可能なものとなる。

生き急いでたなとか、はたまた人に生き急ぐなと言われる、こうもくれば、いつその人に、或いは自分にその時が来るのが分からないんだから、やれる限り生き急いでも問題無いだろう。

思ったことをその瞬間に行動に移せるならば、そのタイミングはまたやってくるものでもない。

正当化だとか、揶揄られることもあるが、今、目の前の世界が自分から消えたならそれも出来ない、する必要の無い我慢をしているくらいなら、自分の感覚が良くなるなら正当化だって、生き急ぎだって良く思える。

死ぬほど努力したが、ある一瞬の直感や、ひらめきで、ある意味それまでの時間は何だったんだと思うほど、全てを覆されることがある。そんな時、自分の中の世界の全てが崩された感覚にもなるが、時間がある程度経ってから気がつく、努力をしたからこそ、その数の中から紡ぎ出された直感やひらめきなんだと。
努力は見かけではなく、指導者で育成ならば、本心で選手の人生のためという前提の元で努力の数をこなすからこそ、急に直感やひらめきというそいつは現れてくる。

振り返ると人生で諦めたり、捨てる選択を許してくれなかった学生生活を恨む。
諦めた者は下の層という名の時に人権すら感じなくなるくらいの立ち位置に置かれたりする。
それは今指導者をしていて、高校生や中学生と触れ合うと、今もまだそんな時代なんだと感じる。

そしてまた、諦めや捨ての選択とその意味はそれを実行したものにしか分からない。
自らが実際に失敗や諦めの原体験をしなければ分からない部分が大いにある。
今では世には片手の画面でタダで失敗しない方法が手に入る。
同じく片手で失敗した人を貶すことが出来る。
学校はすぐ失敗や、やらかす前に答えを教える。
そうして、失敗や諦めはタブーを刷り込まれる。
人と違うことをするやつは異常と見做される。
結局、100人いたら皆同じ行動を求められる。
結局そこから差を見つけるために、イケメンだとかブサイクだとか顔だったり、運動が出来るなど、表面的なところでマウントを見つけるしかない空間に落とされる。
そうやって、失敗はコンプレックスと移り変わる。
よく考えたら失敗は次のチャレンジの精度が上がるに値するが、でもそこに気がついたとてほとんどは同調圧力に屈する。
結局人間は人間である以上、一人より多数に惹かれる類なのかもしれない。
そうやって世の中の常識や基準というものが作られてきたのだろう。
特に今生きる身近ではその常識や基準から外れるものならば。
所謂人生勝ち組負け組論争。

なんて生きづらい世の中か。

この世から去るという言葉はこの世に生まれなければ得ることが出来ない言葉。
問うとするならば、君はこの世に生まれきてしまったとするか、この世に生まれてこれたんだとするか。
人には寿命が存在する。
年齢という数字のみでみるならば、しっかりと可視化された状態で、早死にや長生きしたと選別される。
しかし、この世における数字はこの世が生まれた時には概念が無かったことを考えると、果たして全ての人にその年齢の数字は当てはまるのか。
その人が生きて、生きたその濃さによって本当の人生の密度となり、その数字は数字でしか無い、作りものとして消化し、その人その人が今ある人生を生きるかが大事なのかもしれない。

だから行き急ぐなという言葉は、ある人にはそう感じるだけで、その人の感覚ではフィットしているのでは無いかと思う。

この世で真実というのは自分自身の目や耳で見て触れて感じたことが真実の確率は高い。
結局人のことをどうこう言うよりも、その人が生まれ、死ぬまでに見て聴いて触れて感じたことがその人の全てとなる。

いわゆる、過去、現在、未来全てが同一として、今という中で生きているだろう。

そう考えるならば、これまで出会ってきた人たちと知り合えた確率を考えたら本当はとてつもなく奇跡的なんだとも思う。
人によっては家族となり、更に人が生まれる。

楽しかった。秘密基地を作ったこと。自転車で遠くに行けた時の無敵になった感覚。がむやアイスのアタリが当たったこと。雨や雪に打たれたあとの暖かったご飯。沢山記憶はある。
同時にその時に地獄と感じたり、しんどかった記憶が愛おしかったり。
同時に本当に悲しく、怒り、煮え切らない記憶。
でも今を生きているならば、今を生きていくしかない。

喜ぶ権利も怒る権利も哀しむ権利も楽しむ権利もある。
少なくとも出会った人とその人たちから受けた愛情や知恵は記憶にある限り、無形となりあり続ける。
誰かが忘れない限り、見えないが存在する。

今生きている者として、やりたいこと、出来ること、やりたくないこと、やらなくてよいこと、補い合い生きる。

自らのその時まで生きる。

R.I.P KOHTARO

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?