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教師の「知的リーダーシップ」

最近は「双方向型学習」とか「アクティブ・ラーニング」、「学習者主体の学び」とかが 盛んに話題になっていますが、実は 1960年代にも この話題は盛んになったことがあります。

当時は「教師の知的リーダシップのあり方」などといわれて、大正時代に日本に紹介された「ドルトン・プラン」なども議論の的に…… 大学のゼミ演習などは その最たるもので、教授は毎週 学生の発表や報告をさせ、互いに議論させ、最後に教授が講評をする形で進んでました。
もちろん、依然として 古典的な一斉授業や講義形式が主流なのですが、それだって教師側は講談師や落語家のように、その時間で伝えたいことを より興味深く、納得し易いような形で展開することに工夫を重ねていました。しかし、この “権威主義的なやり方” に異議申し立てをしたのが、1970年頃の学生運動でした。
やがて「学習者にとって本当の学びは何なのか…?」を突き詰めていくと、「若者の学びに “寄生” して給料をもらう教師の仕事は 何になるのか?」という根源的な問いにも至ります。そして大半の若者は破綻し、教師に “教えを乞う” 形に戻っていきました。
その頃から、海外で育った若者が日本の教育現場に入ってきます。いわゆる「帰国生」の “自分が学ぶ” という態度は、保守的な教師と国内育ちの子ども達からは “許されない/わがままな行動” として扱われました。実際には、そうした保守的な教師や国内育ちの子ども達の心の底には、半分憧れや妬みの気持ちもあったのですけど。

帰国生受け入れ校の教師の意識変容

しかし、帰国生の多い学校では、好き嫌いのはっきりした個性強い彼らと接しているうちに、教師の側に「この子たちは面白いじゃないか?」という気持ちが芽生えてきます。
「まず、これを覚えよう」とか「基礎・基本は大事だから、最初は我慢して努力しなくちゃ」とか言うと、拒否反応が返ってくることに 最初は面食らうわけですが、帰国生には帰国生の論理があることに気づきます。なにしろ「黙って私の言うとおりにしてごらん」ということが、帰国生の多くが最も苦手なんだと分かってきました。
ここでは、そうやって教師たちが体得してきたことを、3つ紹介しようと思います。

(1) 弱点克服から始めない

周りの子のレベルに早く追いつかせたいと思うと、その子の “弱点” を中心に指導をしようとするのは自然なことです。しかし、当の本人にとって “苦手なコト” は “嫌なコト” と ほぼ同意義で、嫌な作業ばかりさせられている苦痛・負担・困惑、あるいは 恥ずかしさなどを感じていますから、学習効果も上がりません。
まして、「~について調べてきて」などという課題など、「なぜ、これをやらなきゃいけないの?」と思うことや脈絡がない作業を 次から次に与えられていると感じれば、モチベシーションも上がりません。
ところが 「こんなことをしたいんだけど…」とクラスの課題や目標を示し、「何をすべきか=必要なもの、調べるべきこと、話し合うべきことetc.」を考えたり、実行のための手順を組み立てたりする場面では、帰国生が 目を見張る活躍をしてくれることが多いのです。たいていは、その子の趣味や興味のあるものになりますけど、得意なことは周りと対等以上にできたりしますから、ご満悦です。そして、それを契機として “不得意分野” も次第に自主的に取り組むようになっていくようにもなるのです。

(2) 子どもに考えさせ/選ばせる

上記で「クラスの課題や目標を示し」と書きましたが、子どもは達成目標(ゴール)を教えてもらった方が知恵が出ます。もちろん、調べたり活動したりする “範囲” も予め示しておくことは必要ですが、危険なことでなければ、できるだけ自由に考えさせたほうが効果的なのです。
大事なのは、教師は子ども達を放置しないで “見守っている” こと。定期的に巡回しては、「何か困ってない?」と声掛けも必要です。思考や話し合いが “袋小路” に入っている(そんな時は 子どもからは質問もしません)ことも、けっこう多いからです。
逆に “どんどん発想が広がる子/チーム” には、できるだけ自由にさせ、(子どもは若干 不安にもなってるので)励ましてやることです。海外育ちの子には、とくにそうします。たとえ「面白いことをやってるな」と思っても、教師の “助言” は 控えます。子どもには、ウザイだけなのです。
当然ながら、失敗したりショックを受けたりすることもあるでしょうが、その時こそ 、そこまで来たことを褒め「さあ、もっとやってみよう!」と励まします。要は、子ども達に “寄り添う” ことと「挽回のチャンスはある」と言い続けることです。各々の子がやっていることは異なっても、「先生がいつも見ていてくれる」という安心感があれば、子どもは どんどん試行錯誤や挑戦を続けて、けっこう好い成果が出てきます。

(3) 対話により 思考を引き出す

児童文学者の井手上 秀 先生は、ずっと公立小学校に勤められてましたが、担任している子の保護者の誰に聞いても「ウチの子が一番大事にされている」という感想を述べてました。上記の “寄り添う” という距離感が見事で、子ども達の学力もかなり伸びていたのです(だから親はメロメロ…)。
でも、指導の様子を見ていると、決して教えてないのです。「こうするといいよ」とすら言いません。子どもの語りに傾聴し共感しながら、「ここはどうするの?」といった質問をして、その子が いっそう頭を回転させて考えるように導いてます。
また、「それって、こういうこと?」という質問もしています。すると「そう、それ!」と子どもは目を輝かせたり…… そうやって、どんどん自己肯定感を得ていくのです。国際バカロレア(IB)では、これを「TOK:Theory of Knowledge(知の理論)」と呼びますが、思考を言語化して表現することを通して、学力を伸ばしているわけです。
こんな姿勢でいるからでしょうか、帰国生も国内育ちの子も「国際担当の先生と話している時が一番勉強になる」と言ったりします。親は「よその子にも同じようにしているはず」と頭で分かっていても、「ウチの子が一番大事にされている」と思えるのでしょうね。(まるで結婚詐欺師みたいです)
帰国生は「先生や友達と対話する」という言い回しをよくします。話し合うことが自らの “学び” や “成長” になるという経験を、たくさん重ねてきているわけです。

「Education」の原義は “引き出す” 

「子どもに思い思いのことをさせて、授業なんか成立しない」という根強い意見があります。かつての知識伝達型の教育では、「人間が生まれた時は『Tabula Rasa(白紙)』の状態であり、教師はそこに知識を注入する」という考え方でした。その時代においては、教師はともすると “子どもに(格好よく説明し)教え込む” という自己イメージを抱きやすかったわけです。
しかし、そんな教え方で敬服する子どもは、クラスに一人いればよいほうです。しかも、子ども達は 現在の大人が想像もできない将来を生きて行かなくてはなりません。過去の知識や経験は大事ですが、それ以上に「自分の頭で考え、工夫し、なんとか状況を切り拓いていく力」が求められています。「Education」の原義が “引き出す” であるとおり、その子の内在する能力を引き出し、自己肯定感を感じる経験をたくさんさせる必要があるのです。

他方、講談師にしても落語家にしても、脚本やネタ本は決まっていて、たいていは観客も それを知っています。そうした観客を相手に、笑いや涙を誘いながら心を引きつけていって 楽しませるわけですが、観客の側も勝手に想像を膨らまし、妄想に耽ってしまうとすらいえます。そこは教師の「知的リーダーシップ」と通ずる部分ではないでしょうか。
今の時代、教師が “今日 教えたいこと” は、子ども達は既に知っているかもしれません。だからこそ、彼らの思考を先取りし、効果的な “質問” や "励まし" は何かを予測しておきましょう。また必要となるものを手の届くところまで引き寄せておいたり、校長・教頭に「子ども達が ○○をやるかもしれません」と心の準備をしておいてもらったり(腹を括る?)…… 「学習者主体の学び」を実現するには、“先回り” の作業は欠かせません。


※ 帰国生受け入れ校の教師には、他校に比べて負担が大きいのですが、やり甲斐や教育効果の面から観ても、お釣りがくるほどの喜びがあります。
『月刊 海外子女教育』2020年7月号の座談会「私に合った学校選択とは?」では、そのことが よく分かりました。


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