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黄色の短冊飾り

 

 腰が曲がった白髪の老婦人。店頭に並べてある在庫一掃セールのワゴンから古雑誌を盗んでいく。毎日のことではないが、週に一、二度、通りかかる時に。 
 ――盗まなくったって、欲しければあげるのに。
 ある時武瑠は、彼女が手提げ袋に雑誌をしまう一部始終を見てしまい、見兼ねて腰を上げた。
 ところがいざ店頭に出てみると声を掛けることができなかった。ゆらゆらと揺れながら不自由そうに歩く貧相な後ろ姿に、かつての母親の佇まいを感じとってしまったからだ。
 ……パックに入ったウナギの白焼きを手にしたまま佇んでいた。スーパーの総菜売り場の前で、かなり長い間。
 彼が小学校に上がったばかりの頃のことだ。
 散々迷った挙句、手にしていたパックを商品ケースに戻すとやっとその場を離れた。
 ――なぜあの時の姿が忘れられないのだろう? 
 貧しかった母子家庭の暮らしぶりが呼び覚まされてくるのか、とても厭な記憶だった。
 声を掛けることができなかった。生前一度も武瑠は母親にその日のことを話したことがない。いまだに癒されているとは言い難い。
 姿が消えた街角を見やりながら、古雑誌を盗む理由を知りたいと強く思った。
 店内に戻ってからも彼女の後ろ姿が頭から離れなかった。次の日も、またその次の日も思い出しては、あれこれ想像を膨らませていた。想い浮かぶことは往々にして愉快なことではなかった。古書店を店仕舞いするにあたっての忸怩たる思いも重なって心は晴れず、持て余した感情が表情にも現われていた。
 そんな夫の浮かない顔に妻の知恵は一人合点して、「だって仕様がないじゃない。充分頑張ったよ」と慰めの言葉を掛けるが、武瑠は曖昧に答えるだけでなにも明かさなかった。 

         *

 知恵は今月に入ってから毎日のように実父が入所している老人介護福祉センターに通っている。脳梗塞による痴呆と機能障害がひどくなってきたからだ。
 今朝も早くから一人娘の美穂子を伴って訪問していた。父親の摂食補助の手伝いをしたり、身の回りの物を整えたりしている。
 この日、デイルームで予想もしない出来事が起こった。
 昼食後、介護職員に入浴させてもらっている間、同じ階にあるデイルームの大きな開口窓に寄り掛かって河原へと続く緩い丘を眺めていた。
 二人の老人が絵本コーナーで寝そべって一人遊びをしている幼い美穂子に気づいて近づいて行った。そしてほとんど同時に美穂子に声を掛けた。それだけのことならなにも驚きなどしなかった。
「いつ来たんだい?」
 その二人の老人とはなんの繋がりもなく、顔見知りというわけでもなかった。見ず知らずの老人二人が突然親し気に声を掛けてきたのだ。
「長いこと待ってたんだよ」
 美穂子はぽかんと口を開けたまま二人を見上げていた。
「いつ来るか、いつ来るかと、待ってたんだよ。もう爺ちゃんは待ちくたびれちゃったよ」
 ちょっと離れたところに立っていた知恵にもなにが起こっているのか分からず、怪訝な顔をして事態を把握しようとしていた。
「なにを言ってるんだ。あんたは誰だい? この子は儂のたったひとりの孫だよ」
 車椅子に乗っている方の老人が点滴棒を持った老人に向かって喧嘩口調で言い放った。
「あたしは……」
 美穂子はそう言いかけて、困り切った顔を母親の方へ向けて助けを求めた。
 絵本コーナーに駆け寄ってきた知恵が「ちょっと、なんなんですか?」と強めに声を掛けた。
「………………」
「私は、この子の母親です」 
 老人たちの不安げな、虚ろな表情が知恵にまともに向けられた。時が止まったような間が空き、不穏な空気が流れた。
 二人の老人はいずれもこの老人介護福祉センターに入所している認知症の患者だった。
「ごめんなさい。連れていきます」
 そばに介護職員の姿はなかった。いたたまれなくなった知恵は美穂子の手を引いて足早にデイルームから出ていった。
 ――あんな言い方をしなくても
 父親の部屋に戻ってくるとすぐに知恵は自分の物言いを反省していた。
 ――二人とも父と同じ認知症の患者さんなんだから……。
 二人の老人に不適切な対応をとってしまったことを悔いていた。
 帰宅してからも知恵はその時の希望を絶たれたような、支えを失ったような、なんとも空虚な表情が頭から離れなかった。その場の冷ややかな空気感とともにしっかり刻み込まれる出来事だった。
 疚しさで落ち込んでいる気持ちを武瑠に気づかれまいと、知恵はいつにもまして明るく実父の容体を報告した。

         *

 数日後もまた老婦人は店頭のワゴンから雑誌を数冊抜き取っていった。武瑠はこの日も声を掛けなかったが、ほんの気まぐれから彼女の後をつけていった。
 軽い思いつきの行動が図らずも川向こうの住まいをつきとめてしまう結果をもたらしてしまう。河口に向かう川沿いに彼女の住まいはあった。一見誰も住んでないような廃屋感が濃い老朽家屋だった。
 住まいを見届けたことで達成感のようなものが感じられて、その日はそのまま帰宅した。
 別な日、いつもの川沿いの散歩のつもりだったのに、知らず知らずのうちに足は老婦人の住まいへと向かっていた。
 好奇心に駆られるままに廃屋寸前の家屋の裏手に回ってみると、畑地越しにその家の中が覗けた。彼は人目につかない場所を見つけると腰を下ろした。 
 しばらくすると老婦人が縁側に現れ、座椅子にもたれた。手には古雑誌がある。陽だまりの中で心地よさそうに雑誌のページを捲り始める。飽くことなく長い時間紙面に見入っていた。雑誌を見終わる頃には陽が翳り肌寒くなっていた。彼女は雑誌を閉じると、やおら背表紙を折りばらし始めた。
 ――えっ、破っちゃうの?
 武瑠は目を疑った。
 ――盗んでまで欲しかった雑誌なんじゃ……
 しばらく観察していて、その理由が分かった。煮炊きする竈の焚きつけにするのが最終的な目的だったのだ。

 年金資格が得られず年金なしで暮らす老夫婦。夫は八十過ぎで、わずかばかりの廃品回収と空き缶拾いを生活の生業としている。胸が痛いと寝込みがちな夫を「まだ痛みがとれんね?」と案ずる足の不自由な妻。決して健やかで、安穏とした暮らしぶりとは思えない。
 今日日痛ましく哀しい話はいくらでも見聞できる。認知症の夫の面倒をみることに疲れた妻が夫と心中するという事件がつい数ヵ月前にあった。また、それからそう日を経ない時に、寝たきり状態の妻の介護疲れから妻を殺害し、自らも自家に火を放って命を絶とうとした事件が起こった。悲痛な話はなにも高齢者に限ったことではないけれど。
 どんな気持ちで、なにを支えにと勝手に想いやると、武瑠の心は自ずと曇った。
 ――夢も希望もなく、ただ生きるということだけに心を砕く……。
 武瑠は、わが店舗への帰途、憶測が積み上がってきて、なんとも言えない陰鬱な気持ちに囚われた。

         *

 デイルームでの一件が起こってから、知恵は介護センター内で二人の老人と出くわさないように細心の注意を払った。
 ――どうしてあんなに過剰に反応してしまったんだろう?
 知恵は自問していた。
 純粋で、無垢な感性。繊細で、壊れやすい感受性。
 幼児に、激しいもの、危険なもの、哀しいもの、恐ろしいもの、過度に感性を震わせるものに触れさせてはいけない。未成熟で、未完成な資質に傷を与えてはいけない。
 生まれたその日から厭なもの、厭なことを学習していく。十歳ころまでに性格、性癖の素となるものが確定されるという。だから早期から環境、出会いが重要とされる。より良い出会いや環境が与えられるように導いてやることが親の務め……。
 一度傷つけられ、刻みつけられてしまえば、もうそれを修復し元に戻してやることはできない。一生背負っていかなければならない障害となってしまう。
 ――だから、私は、あの時……

 日を経てそんな頑なな心にも変化が生まれた。
 忌み嫌うことではないし、むしろ微笑ましい出来事じゃなかったのか、と。
 自分の拘りはとるに足りないもので、心から嬉しそうにしているご老人の姿や輝くような表情を美穂子が引き出せていることに喜びを感じるべきではないのか、と。
 知恵と美穂子はデイルームに再び姿を現わすようになった。誤解や勘違いなどという、ごくありふれた理由からだけではなさそうな老人たちの物言いを阻んだり、訂正したりするようなことをしなくなった。
 和やかな雰囲気に包まれて談笑している様子を見ていたその他の老人たちも、いつしか美穂子の周りに集まってきて、話の輪に加わってくるようになった。老人たちは競って美穂子の関心を惹こうと懸命だった。そのやりとりや老人たちの様子がどことなくもの哀しかった。
 老人たちはみな美穂子のことを自分の孫だと思い込んでいる。美穂子もそれを承知している。どんなつもりでそうしているのか推し量ることができないが、見事に役になりきっている。もう母親に助けを求めるようなことはない。
 そんなわが子を、知恵は離れたところから微笑みを浮かべて見守っている。

「美穂子があの一番上の黄色い短冊になんて書いたと思う?」
「なんだろう?」
 美穂子のすぐ横の車椅子に坐っている老人が、デイルームに設けられた七夕飾りの笹竹を見上げながら首を傾げている。
「美穂ちゃんは、お爺ちゃんがなんて書いたかわかる?」
 美穂子と車椅子の老人との会話を聞いていた別な老人が美穂子の背後から声を掛ける。
「だめだめ、騙そうとしても。お爺ちゃんは白の短冊になにも書いてなかったじゃない。あたし知ってるもん」
 美穂子はちょっと後ろを振り返って冷淡に答えた。
「お婆ちゃんは赤の短冊になんか書いてたよね、さっき」
「あら、見てたの」
 老人の顔がほころぶ。
「うん、見てたよ。あっちの方から」
 美穂子が母親の方を指さして答える。
 美穂子は車椅子の老人がお気に入りのようだ。雑な対応をされた老人の方はそれでも美穂子と車椅子の老人のそばから離れがたい様子だ。
「はやく みんなが……」 
 車椅子の老人が美穂子の黄色い短冊に目を凝らし、拙いひらがな文字をしゃがれ声でゆっくり一音一音確かめるように読み上げ始めた。 
「げんきに なりますように」

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