見出し画像

真夏の噴水広場にて

 
 真夏のフォンテーヌ(噴水)公園。よく晴れた日の昼下がり。
 広場の真ん中に大きな噴水池があり、その周りを円状に洒落た洋風ベンチが取り囲んでいる。男と男、女と女、男と女がそれぞれの距離感で腰かけている。 
 智彦と智子が坐っているベンチは木陰だったけれどあまり涼しくなかった。やや熱の籠もった空気が肌に纏わりつくように触れてくる。救いは稀に吹いてくる噴水の飛沫に冷やされた風だった。
 
 ひどく力を落としているようだったので励まそうと思って肩に手を掛けたら、森君なにを勘違いしたのかあたしの腰に手を回してきたのよ。
 突飛なことでこっちはマジ驚いちゃったけれど、すぐに「この馬鹿野郎!」ってムカついてきた。
 だからきつい目で睨みつけて、はっきり分かるように叩くように払い除けてやった。そして「そんな元気があるんだったら大丈夫だよね」って言って、掛けた手で彼の肩をポンと叩いてやった。
「なに勘違いしてくれてんのよ」と本当はきつく言ってやりたかったんだけど。勿論、口には出してないわよ。「あっ、ごめん」って、彼、驚いた顔してすぐ詫びたし。
「つい甘えちゃって、勝手に手が」
「なにが勝手にだよ」と思ったけれど、今度も心の中だけで。
「いま俺、全くの無防備な精神状態だから、つい」って言うから、我慢できずに
「つい、なに? 無防備だったらあたしの腰に手を回しちゃってもいいってことなわけ? 許されちゃうわけ?」
 て、言っちゃった。
 そん時、実に情けない、弱々しい、乳児のようなつぶらな瞳であたしのこと見てんのよ。それ見た瞬間、あたしの方が勘違いしそうになっちゃって。と言っても、ボディタッチを受け入れるという意味じゃなくて、母親のような気持ちというか、うーん、やっぱ慈愛かな、強いて言えば。
 
 その彼との顛末を、智彦は智子の口から直接聞かされていた。
「その数日後に真沙美とお茶してて、つい森君のこと話しちゃったのよね。あたしの中で処理しきれてなかったんだね。失敗だった。ほんと彼女には話すんじゃなかった」
「そうだったんだ」
「……でね、あたしの振る舞いや態度にスキがあるからそんな勘違いされるんだ、責められなければいけないのは森君よりあたしの方かも、反省しなければならないのはあたしかもって、ぽろっと本音を漏らしちゃったんだよね。……嗚呼、最悪。
 で、彼女、なんて言ったと思う?」
「さあ、見当もつかないけど」
「分かるゥ、ほんと分かるゥって言ったのよ。嗚呼、最悪。……全然分かってなんかいないくせに軽々しく」
「……真沙美さんとの話はともかく、森君のことだけど。性愛は人間に与えられた大きなおまけみたいなもんで、人間の営みのメインとなり得るもんじゃないよね。精神性に裏打ちされた思念や行為こそが人間関係においては最も優先されなければならないものだからね」
 そう言った瞬間、矢庭に冷めた顔ときつい眼が智彦に向けられた。
「はあ? なに言ってんの。おまけですって?」
 彼女は呆れたような顔をしてこう返した。
「なにも分かっちゃいないわね。肉体的な愛も精神的な愛も一緒なのよ。性愛も愛も同じってこと。両方優劣つけられるようなものじゃないのよ。メインもサブもないの」
「えっ?」
「ばあーか」
「僕は君の気持ちに寄せるつもりで……」
 智子は智彦の顔を見据えて自分の頭を人差し指でポンポンと叩いて見せた。
「馬鹿?」 
「うん。正真正銘の」
「……母性愛、父性愛、兄弟愛、人類愛、……異性愛、同性愛、性愛……愛? 愛って……」
「ほんと、ばあーか」
「僕が?」
「そう。そんなこと言ってっから上手くいく話も上手くいかなくなるのよ。優子さんとの関係、完璧に駄目になっちゃったでしょ」
「………………」
 智彦は返す言葉もなく口を噤むしかなかった。まだ癒しきれてない傷口を不意に触られて萎えてしまった。智子の強い意志が感じられる瞳から逃れるように、智彦は噴水の方へ眼をやった。
 噴水の飛沫を浴びながら無邪気に戯れている女児たちのことがとても羨ましかった。
 
        *
 
「卒業旅行でヨーロッパへ行った時のこと、話したことあったよね」
「うん、憶えてるよ。素敵な出会いがあったんだよね」
「そう」 
「見つかって欲しいと思ってはいたんだけれど、まあ無理かなって思ってたよ」
「そうなの?」
「手がかりが大学名と年齢、それから下の名前だけじゃあねえ、さすがに」
「どうしても諦めきれなくて」
「調べ続けているの? あれからずっと?」
「ええ。私なりに、できることはなんでも」
「でもだめだったんでしょ?」
「綾子は運命とか縁とかって、信じられる?」
「ロマンチックではあるけれど、さすがにもう夢見てるような歳でもないし。ある日偶然ばったり、なんてことはドラマじゃないんだから」
「実はね、さっきから気になってるんだけど」
「なんの話?」
「噴水の向こうのベンチに坐ってる人、似てるのよ」
「えっ! どの人? こっちの人?」
「立ち上がらないで。お願いだから。坐ってて。普通にしてて」
「間違いない?」 
「多分」
「で、どうするの?」
「分からない。どうしたらいい?」
「あなたですかって訊く?」
「………………」
「迷ってる場合じゃないことだけは確か」
「そうだよね」
「間違っててもいいじゃない。後から悔やむより」
「うん……私、行ってくる」
「ついていこうか?」
「ううん、いい。ひとりで」

 水遊びしながら奇声を上げている女児たちのそばを通りかかった時、噴水の飛沫が真智子の頬にかかった。一瞬にして当時の感情が蘇ってきた。
 記憶に飛ぶ。フォンテンブロー宮殿の噴水の輝きが、手をつないで歩いている感覚が……次から次へとフラッシュバックしてくる。纏わりついてくるようだった緩い風が、せり上がり砕け散る噴水の飛沫のおかげで心地よく頬を撫でる。
 ――あの時の出会いもこうだった……
 フォンテンブロー城の広大な美しいフランス式庭園を仲睦まじく腕を組み、手を繋いで散策してまわった。交わす言葉は多くなかった。心はすでに通じ合っていた。遠い異国の地で、だれ憚ることなく、恥ずかしく思うこともなく、互いに求めあうままに抱き合い、キスをした。時が止まり、私たちの永遠の未来が確かに感じられた。
 ――なぜあんな中途半端で不確実な約束の仕方をしたのだろう……
 のぼせ上り、舞い上がる情念のせいだったのだろうか。なにもかもが分かり合えているという思いからだろうか。すべての感覚が痺れ、呆けてしまっていた。誓いや約束事などさほど重要なことだとは思えなかった。空港ではすぐに再会できるものと信じて疑わなかった。
 しばしの別れのはずが、予想外の結末となってしまった。失意、絶望、苦渋の底に沈む日々が待っていようとは想いもしなかった。英国とイタリアでのそれぞれの旅程が崩れたせいで、なにもかもが行き当たりばったりになり、お互いの帰国の予定が完全に狂ってしまった。連絡の取りようがなかった……。 
 いま、そのふたりに生じた綻びを紡ぐ、修復の光が射そうとしている。
 
 なんという展開だろう。こんな救済の道が拓かれるとは。
 いま目の前に坐っている人は、まさしく私が心の底から探し求めている人だ。
 唯一無二のかけがえのない、すべてを捧げ尽くしても悔いない、この世の中で唯ひとり、ひとつになりえる愛する存在。
 堪えていた涙が溢れだしそうになる。
 でも泣いていてはいけない。いまの私には涙はいらない。
 素のままで微笑んで飛び込めばいいのだ。
 
「おひさしぶりでした」
「えっ?」
「お忘れですか?」
「なに? 真智子なの?」
「はい。憶えててくれたんですね」
「本当に、あなたなの?」 
「忘れられなくて、どうしてもお会いしたくて、ずっと捜していたんです」
「どうしていまあなたがここにいるの?」 
「奇蹟ですよね」
「信じられない」
「私も」
「こんなことが起こるなんて」
「会いたかった」
「必死に捜してたんだけど、だめで……」
「私も同じです」
「半ばもう諦めかけてたのに、こんなことが起こるなんて」
「お話したいことが山ほどあります」
「あたしにも」
「智子さんの時間を私にいただけますか?」
「もちろん、いくらでも」
 
 噴水の向こうの男同士が、突然怒声を浴びせ掛けながら殴り合いの喧嘩を始めた。
 広場のベンチに腰かけていた人すべてがその方を見ている。噴水で遊び戯れている女児たちだけが、気に掛けることなく遊び戯れ続けていた。
   
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?