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福田翁随想録(10)

 銀河鉄道の車窓から

「遺言書」はいつも正月に書き換えているが、今年はそれとは別に「死亡通知」をしたためて百枚ほどコピーし、仏壇の戸棚に入れた。
 家人には電話の問い合わせがあったり、郵便物がきたらその宛先にこの死亡通知を出すように頼んでいる。
 内容はこのようにした。

 このたび天寿を全うして独り静かに銀河鉄道始発駅から宇宙に旅立つことになりました。
 この世に生を享けるまで両親にはそれぞれ両親がおり、二十代では五十二万四千二百八十八人となり、百代では六百三十三穣(じょう)というおびただしい数になるという計算になる由です。
 宇宙発生は百五十億年といわれますが、それ以前となれば神秘に閉ざされます。
 辿れども始めなく従って終末もなく、無限の大河の流れに漂う微小の一粒子がこの私でありましょう。
 形も始めもない所から私の生命が発生したということは、空即是色ということでもありましょう。
 私の旅はこうして無限軌道に乗って宇宙の彼方に向かうので、永遠の生命への帰還となるのです。
 随所において私の平安を祈っていただけたら幸いです。
 狛江の自宅の遺族は応接に疲れますので、拙宅にお越しはお断り致します。
                           
 読み直していささか理屈っぽいと思ったが、平素考えていることでもありスラスラと書き上げてしまった。一生の締めくくりだからこれでもいいのではないだろうか。
 私は昭和五十三年(1978年)に岩手放送の役職から身を引く時、大過なく過ごしたなどといった、ありきたりの文句を並べないで、上等の雲竜紙を巻紙風に使って少し長かったが心境を吐露した。当時のコピー材は今日のようでなかったので挨拶状には使えなかった。
 こうした作業は終えると、肩の荷を下ろした安心感を覚える。 
 殊に年を追うごとに友人知人が鬼籍に入るのを見るにつけ、わが死後の繫雑さを家族にかけたくない。
 七十代前半までは、駅の階段は二段飛びして若者たちにザマ見ろといわんばかりに健脚を誇っていたのに、狭心症と診断されてからは情けないことに、地下鉄の昇り口から踊り場までの十三段、更に踊り場から地上に出るまでの十八段の計三十一段だけで動悸が烈しくなるのを覚える。
 遠出の旅行にも気後れがする。いつか郷里の姉に万一の場合でも顔を出せない、と余計なことを口にして叱られたが、その姉も最近は電話に出られなくなった。
 近ごろよく墓地勧誘の電話がかかってくるが、墓地はかなり前に用意してある。私は三男坊でしかも郷里から離れてしまったので、両親が埋葬されている本家の墓域に入れない。
 墓石には「倶会一処(くえいっしょ)――倶(とも)に一つの処(ところ)で会う」と私が墨書したのを彫らせた。家人の両親や兄弟一家、それに娘の嫁ぎ先など希望者は歓迎することにしている。
 いずれ私も入ることになるが、お盆やお彼岸には、その墓所のある見晴らし台を眺めながら「俺はここにへごんではいないよ。いつもお前たちと一緒にいるからね」と唱えることにしている。恩師・盛岡報恩寺関大徹師がいつも口にしておられた言葉でもある。
 これで思い出すことがある。
 新渡戸稲造博士がニューヨークの劇場で『青い鳥』を観劇した時の話である。
 劇中の子どもたちが亡くなったはずの祖父を見つけて「お爺さん、どうしてここにいるの?」と不思議に思い尋ねると、「お前たちが私のことを思い出してくれるからこうして現れるのだよ」と答える場面があり、そのくだりに新渡戸博士はいたく感銘したという。
 私はこの話を知って深く感動した。その通りだと信じているからだ。
 忘れ難い人のことを思い出し、在りし日のことを生き生きと思い描けば、その人がこの世に蘇ってくるのではないか。
 したがって私は、銀河鉄道に乗って宇宙を飛翔しながら、家族や友人たちから回想されるたびに車窓から顔を出して手を振ることができるのである。

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