見出し画像

福田翁随想録(21)

 カナダ先住民の死の美学 

 悪いことしているように年を取り
 敬老の日だけ長生き許される
                  朝日川柳
 もしかして早く死ぬのも国のため
                  とうでん川柳
 
 世界一の長寿国となり、私自身も高齢者のグループに入ってくると、このような川柳のブラックユーモアに苦笑せざるを得ない。
「姨捨(うばすて)伝説」は、ひと言でいえば、生産力を失った老人を口減らしのために山に捨てに行かざるをえなかったという言い伝えであるが、今日の情報社会にあっては、コンピュータやインターネットの世界に馴染めない管理職の姿とだぶってくる。窓際に追いやられ、若者から軽んじられる。中年の働き盛りといいたいが、会社からは「生産能力の低い、必要のない人」と見られる。
 私自ら超高齢になってみると、いつまでも場所塞ぎもどうかと思わないでもない。寿命には抗することができない。
 カナダ北西部極北地帯に住む狩猟民のヘヤー・インディアンの社会では、狩猟能力を失った者が食糧不足の危機から「俺はここに残る」と宣言し、別のキャンプ地に移動する集団の仲間たちはこれを黙認してわずかな食糧の半分を分け与えて去っていく。集団にとって半分を分け与えるのは大きな犠牲だが、残る人の気持ちが分かるので抱擁し合う。それが彼らの習わしである。ヘヤー・インディアンの人たちにとって長く生きることよりも「安らかな顔で死ぬ」ことの方が大切なのである (『世界の老人の生き方』湯沢雍彦) 。最近ではカナダ政府の定住政策でその生活様式も様変わりしているとのことであるが。
 ところで、われわれの周りではどうだろうか。朝から晩まで、あれを食うな、これを飲むなと健康説教を浴びせられ、耳にタコができる。
 コーカサス地方や南米ペルーのビルカバンバに百歳を超える老人がたくさんいるということで注目され、訪問ツアーを企画する旅行会社の誘いにのって一時大賑わいだった。
 日の出とともに畑に出て、日没には神に感謝して家路に着く。食事はお世辞にもご馳走らしきものはなく、車にも頼らず、自然の懐の中で静かに暮らしている。それらの地域は確かに四季を通じ気候が良く、湿気も少なくさらっとしているようだが、豊かで便利な生活に慣れた日本の長寿希望者には参考にならなかったようだ。
 戸籍もはっきりしていないのに正確な年齢などわかろうはずがない。この企画旅行は近ごろ音沙汰ないが、結果にだけ関心をもって経過は無視するといった物の見方、考え方はどうかしているといえまいか。
 健康雑誌の書籍広告を新聞で見ると、ニンニクや海草を食べるとすぐにでも血圧が下がるようなものばかりだ。テレビでも、やれ牛乳だ、酢だキャベツだなどとやたら高齢者の健康食メニューを紹介しているが、それらを食べていれば九十歳になっても畑仕事をする元気が出てくるというのか。なんの保障もない。
 私がいつか生水の効用について書いたところ、生水健康協会とやらから味方が現れたと思われたのか「毎朝一升飲んで運動する」というパンフレツトが送られてきた。いくら生水がいいからといっても、飲めない口元に無理やり押し込んで嚥下(えんげ)させるというのでは拷問で、何のための健康法かわからなくなるではないか。
 先年モスクワで水にあたって下痢に急襲されたことがあった。それを見かねて「ウォッカに岩塩を入れて飲んだら直る」と教えてくれる人がいて恐縮した。ロシア人ならいざ知らずそうもいかないので、たまたまいただいた梅干しとお粥でやり過ごしたことがある。

 いつか日本一の長寿村と評判の山梨県棡原(ゆずりはら)村を訪ねたことがある。
 この山村も交通の便がよくなってからは昔のような山の幸ばかりを食べるのではなく、手軽な出来あいのものにも手をつけるようになった。近年壮年層の夭折が増えているという。長い間山野を足で駆けめぐるのが当たり前だったのに、今では朝民宿の前を黄色の帽子をかぶった児童たちが母親に見送られてスクールバスに乗っている。
 秋祭りの準備に神社に集まっている人たちは粗食で育った古老たちだけだった。
 先に挙げたカナダのヘヤー・インディアンは日本の半分ほどの土地にわずか総人口三百五十人程度の部族だが、わが能力の限界を知ると集団に差し障りがないように行動し、ひたすら「美しい死に顔で死ぬ」ことを理想としている。だから寝たきり老人はおらず、老人問題はないという。この集団を未開だ、野蛮だと貶(けな)すことができるだろうか。
 このような死の美学は、現代社会のぬくぬくと暖房の利く環境で育まれ、学んだ者には到底理解できないことかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?