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醜顔男と美顔女

 
 男は鏡の前で洗顔していて石鹸泡を洗い流す瞬間、鏡の中の自分の醜顔に改めてうんざりさせられた。暗鬱な気持ちで出勤の身支度を始めた。
 見飽きた同僚たちや小うるさい上司の顔が浮かぶ。今朝もまた生活を変えたいと心の底から思う。
 逃げ出したい衝動に駆られる。ところが頭の中にやりかけの仕事がぞわぞわっと蘇ってきてすぐに現実に引き戻されてしまう。
 ――いまの仕事の進捗具合を分かっているのは自分しかいない。だれにでもできる業務だけど今日手がつけられるのは、続行させられるのは自分だけだ。
 食欲など湧くはずがなかった。いま無理して腹に押し込んだら恐らく速攻吐いてしまうに違いない。
 見覚えのある老若男女の顔に付き添われて最寄り駅のホームに立つ。いつものようにホームは大変な混み具合で、押し出されて線路に転落してしまうのではないかという恐怖に駆られる。ひっくり返ったわが身が引き裂かれる凄惨な映像が浮かぶ。
 身震いして反対車線のホームに目をやると視界に入ってきたのは、がらがらに空いた静止画のような光景だ。
 ――どこか見知らぬ、遠いところに瞬間移動してしまいたい……
 馴染んだ負の想念がひとしきり漂う。そこへ滑り込んできた電車の騒音になにもかもが搔き消されてしまう……。
 
「おっはよう!」
 同じ課の同期入社の女に声掛けられる。
「どうも」
 ――なんでいつも俺にだけ、そんなに軽々しくお気楽に声掛けてくんだよ。おまえとそんなに親しくなんかないだろうが。馬鹿にしてんのか。
「どうも、じゃないですよ。いっつものことだけど」
 ――挨拶してほしそうな奴らなら他にいっぱいいるじゃないか。
 きつい視線を颯爽とした軽い身のこなしでかわして、明るい含み笑いで歩み去っていく。

 女は今朝もまた鏡の中の自分の美顔にほれぼれしていた。いつもと違ったのは、なにを思ったのか、馴染んだ醜顔を自分の顔に重ねてみようと思い立ったのだ。
 ――今朝どうして彼の顔を重ねたんだろう?
 給湯室でコーヒーを淹れながら、ふと今朝の珍事を思い返していた。
 ――毎朝鏡に映る自分の顔を見てなにを考えているんだろう? どんな気分なんだろう?
「気になる?」
 いつ給湯室に入ってきたのか、背中越しに後輩に声掛けられる。
「なんのお話かしら?」
「またまた、お戯れを」
「一応ね、私はあなたの先輩なんだからね。気を遣いなさいよ」
「はいはい」
「親に言われなかった? はい、は、一回」
「わあー、今朝の母親の完コピ」
「あなたに構っていられない。朝いち連絡しなきゃ」
 女は後輩の話したげな口元をちらっと見て、断ち切るようにさっと背中を向けた。
「先輩、忠告しときますけど、駄々洩れですからね」……
 
 まだ夜が明けきらぬ薄暗い寝室で、虚空を見上げながらぼんやり考えていた。
 いつもなら目覚めるとすぐに布団から出て洗面所に向かうのに、今朝は違った。
 起き上がることもせず、今しがたまで見ていた夢物語を反芻していた。どこか風変わりな面白恋愛話に発展しそうなお話に、ちょっとばかり興味を覚えたからだ。
 醜顔男と美顔女の話を膨らませてみようかと思い立った。
 顔も洗わず、歯も磨くこともせず、すぐさま机に向かいパソコンを立ち上げ、いまにも消えてしまいそうなかそけき夢物語を定着させようと、怖ろし気な醜い妖怪と化したような尋常ならざるいでたちと気配を色濃く漂わせて、すさまじい勢いでキーボードを叩き始めた。
 
 
 
 

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