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シズカとコズエと ①


 1 シズカの息吹

 荒い息を吐き続けていた老犬が、そのとき突然呻いたかと思うと一匹の子犬を出産した。
 犬は妊娠していたのだ。シズルはそのことにまったく気づいていなかった。
 それまで母犬は横たわったまま荒い息を吐くだけで、なんの声も発していなかった。痩せ細り、色艶の乏しい汚れた体毛に覆われていた。
 母犬は生まれたばかりの子犬を舐めようと最後の力を絞って頭を起こした。まだ目も開かぬ子犬はその母犬の舌を求めるかのようにその方へよろよろ這っていく。
 母犬は体液で濡れた子犬のからだをすっかり舐めきると、眼にいっぱい涙を湛えたまま動かなくなった。シズルはその一部始終を何もしてやれず、そばにいて見届けているだけで精いっぱいだった。
 シズルはその子犬の口を母犬のお乳のひとつにあてがった。子犬は教えられたわけでもないのにその乳首を口に含み、小さな前足でお乳を交互に押しながら吸った。母犬のお乳からわずかな白濁したミルクがにじみ出てきて、子犬はそれを音たててむさぼり啜った。
 シズルは子犬が乳首から口を離すまで手を出さずにそのままにしておいた。
 子犬を母犬から離すとき、母犬が呻いたように思えた。
 ――子犬を自分に託そうとしているのだろうか。それとも奪われるとでも思って威嚇しているのだろうか。
 段ボール箱の底にやわらかいタオルを折って敷き、その上に子犬を寝かせた。
 母犬は小さな赤紫色の花を咲かせたホトケノザの上で、体液を舐めとった舌を出したまま静かに息を引きとった。
 白い母犬の後ろ足と腹の毛は、流れた血と体液で淡くピンク色に染まり、尾の方の毛はすでに乾燥した和筆のように固くなりかけていた。
 シズルはそのメスの子犬に「シズカ」と名前をつけた。

 ――②に続く

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