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福田翁随想録(27)

 人はなぜ長生きを望むのか

 長命はめでたいとされる。敬老の日を祝日に設定し、自治体からもお祝いしていただいて恐縮しているが、人はなぜ長生きを望むのかいささか懐疑を覚えて自問する時がある。
 大隈重信は百二十五歳まで生きると確信していたらしいが(『人生125歳説』)、遠く及ばぬ八十四歳で死去している。後に建てられた早稲田大学のシンボルである大隈講堂の時計塔の高さを、提唱した数値にちなんで百二十五尺(約三十八メートル)にしてもらった。
 スコッチ・ウィスキーの「オールド・パー」のラベルにあるトーマス・パーは、一四八三年イングランドの田舎町で生まれ、一六三五年にロンドンで亡くなっている。なんと百五十二歳の長寿である。そのおかげでチャールズ一世からサーの称号を贈られたそうだが、こんな例はおとぎ話として聞き流した方がいい。
 先ごろ雑誌にある財団の理事長をしている人が「人生百五十年」と題する一文を載せていた。筆者は本省の局長を務めた方で、八十歳になって差し当たって百歳までの夢を披露されている。
「英語力を高めて説得したり笑わせたりしたい。ゴルフは八十五歳までにシングルになり、その後は毎年エイジシュートを達成する。今の剣道七段から百歳で剣士に昇り、七十八歳でインターネットのアドレスを取り世界中の人と交信したい。百歳時に絵画、俳句、和歌を一緒にした『人生百年』を出版する」
 ご自分はこうした人生目標達成のため、真向法(長井津氏創始の健康法)で頭も身体も柔らかくし、腹七分目の食事を心がけているという。また、アジアの若い指導者の受け入れに尽力したいと、その意気は壮である。
 筆者は私と同じ大正六年生まれだが、その気宇(きう)にはとても及ばない。
 また同じ雑誌に、医者の方が「PPK」(ピンピンコロリ)で死去することを提唱しておられるが、そううまく一巻の終わりといけるものではない。
 狭心症と診断された時、私はこれで寝たきりにならずにコロリと逝けると内心喜んだが、いざ胸が苦しくなると、「死」が意識され、どんな苦しみ方をしなくてはならないのかと恐怖と不安に襲われ悶々とした。そう簡単に逝けないのだと痛感した。
「PPK」は願ってもない死に方だが、総論賛成でも各論にわが身が及べばすぐには応じかねる。
 前記の「人生百五十年」のお方はご自分の抱負だけを述べておられるが、化石人間となった超元気爺さんを孫、曾孫はどのように扱ってくれるだろうか。他人事ながら気に懸かる。

 ところで、長寿になればなるほど、逆縁の悲嘆にくれるケースが出てくる。子どもが親より先に身まかることは決して稀なことではない。
 ここで思い出した。
 バンクーバーのオッペンハイマー公園界隈は戦前日本街があった所だが、日系カナダ人のシニアたちが気軽に集える「もう一つの我が家」創設に尽力された隣組創設者の浜田淳氏は五十一歳で亡くなられた。
 母親の梛女(なぎじょ)さんに句集『雪野』があり、先立たれた愛息に惻々(そくそく)たる想いを寄せていて、涙をそそられる。

 昼も夜も 吹雪けり
 遠くにて病む息子

 戦争で日本人街は強制疎開を命じられ、遠く東部のオンタリオ州に移された。苦難に耐えながら五人の子を育て上げたのに離れ離れになってしまった親の愁い。

 子ら遠し
 わが窓雪が積むばかり

 病む子に着せてやりたいセーターを編む手に涙が落ちなかったろうか。

 霧こめて
 病者と聖書読みつづく

 老母はやっと訪ねて我が子の手を握ることができた。二人を固く結ぶのは聖書を読んであげることだった。窓越しに聴こえるのは入港を知らせる船の霧笛。
 秋も深まると物哀しい霧笛で私はホームシックに駆られたものである。

 軽々と
 雲の峰越え逝きし子よ

 母親は独りまた東部に帰らなくてはならなかった。
 私も機内から涯しなく続くロッキーの山涛を眺めたことがあったが、神秘の山容に子どもは抱かれているのに違いないと諦めの涙をおさえたかも知れない。

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