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福田翁随想録(16)

 大地に根づいた古老の訓え

 散る桜 残る桜も 散る桜

 良寛禅師の辞世の句と伝えられているが、この句意を私なりに味わっている。
 私の引退時、関係していたある事務局の幹部がお昼に招いてくれて別れの食事をした。 
 現役時には事務所に威勢よく出入りしていただけに、ただの人になればさぞかし私の姿格好が寂しそうに映るのかもしれない。いつも明るく冗談を交わす仲だったが話は弾まず座は湿っぽかった。
 私はまだカナダの入国ビザの見通しが立っていなかった。相手はこれからどうやって暮らしていくのか訊くのを憚っていたのであろう。明らかに同情とも憐れみともつかない眼差しだった。
 本当に先のことは分からないもので、私がカナダから帰国後に彼も引退を迎え、そして間もなくして病没した。私と会った時には私の引退を明らかに他人事のように見ていた風であったのに。
 いずれにせよ時の勢いというものはこうして誰も彼も押し流し、桜花が散るように皆同じ高齢者の肩書なしグループに合流させてしまう。

 新聞社で名を成し売れっ子になっていたある評論家が「身なりはしゃんとし、口がかかったらお断りしてはならない」と自著で訓示している。なるほどそういう心掛けも必要かもしれないと思っていたが、当の私は作陶にも本格的に取り組みたいと考えていたこともあって友人からの顧問に迎えたいというお誘いを断った。
 どんな形にせよ、今まで関わってきた業界に出入りする気持ちにはなれず、心機一転して別な分野で別な世界に住み、人生を二度味わってみたいという考えの方が勝っていた。
 金銭収入のことまで配慮してくれたその友人には深い恩義を感じている。
 彼は私と前後してマスコミ界を引退した後、それまで懇意にしていたある業界の幹部に見込まれ文化活動に携わり、驚くほどの業績を上げている。
 ここで荒川英翁のことを思い出した。
 翁とはふとしたことから知り合いになった。青梅線白丸駅から山道をかなり登ったところにある翁の小屋を訪ねたことがあるが、世の中にこのような方もいるのだと深く感動した。
 バブル経済に浮かれていた頃だったが、買うものといえば米と塩ぐらいでほとんど自給自足の暮らしぶりで、立ち居振る舞いはとても明治三十年生まれと見えなかった。奥多摩の荒れ地を拓いた時には傘寿を越えていたそうだが、訪問した時、けもの道を登りきった畑でご夫婦二人で大豆を収穫しておられた。
「終戦後北海道に入植し、厳しい開墾地からでも食糧の供出を果たすことができたこと、世の中が落ち着きを取り戻した頃あえてブラジルに渡り農場経営に携わったことに満足している」
 と、粗朶(そだ)を燃やす囲炉裏を前に話された。
 水は近くの谷川から手汲み、燃料は裏の林から要るだけ運んでくる。自生しているユリを栽培し、好物の蕎麦粉には不自由しない。味噌も醤油も自家製で、病気知らずで医者にもかからない。生活費は月に一万円程度しかかからないという。
「これが本当の生活というものではないでしょうか」
 と、破顔一笑しておられた。
 帰り際に
 わが生命(いのち) 育てはぐくむこの大地
 さらに守らむ 力つくして
 と、自身が墨書されものを手渡された。 
 しばらく文通を続けていたが、文字も文章も達者だった。いつかの手紙では、近くの障害者施設に乞われて、子どもたちにツルを絡ませドーム棚の平竹作り(←?)を教え、喜ばれているとしたためられていた。
 思い出して奥多摩町役場に問い合わせると、平成八年に九十五歳の天寿を全うされたということである。
 世の中が浮かれ、グルメブームとやらで美食あさりに狂奔している時、東京奥多摩の開拓地で実学を積んだ卒寿が「実在」していた。

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