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松浦鉄道で見た、鉄道の3世代

石炭輸送にはじまり、長距離ネットワーク、そして次世代モビリティーへ

2019年の暮れ、松浦鉄道に初めて乗った。鉄道好きには、日本で最も西にある駅「たびら平戸口」で有名な、佐賀県と長崎県を走る全長93.8kmの路線である。もともと明治時代に石炭や有田焼を運ぶために建設された後、産業の衰退と乗客の減少に苦戦してきた、地方の鉄道には馴染みの歴史がある。
しかし近年、様々な経営のチャレンジが実を結び、(2018年度こそ自然災害の影響で赤字だったものの)5年にわたって黒字を達成している。具体的な取り組みとしては例えば、地域の交通弱者であり大切な顧客である学生やお年寄りの利便性を追求して、多くの新しい駅が設置された。実際、佐世保の周辺では列車が2〜3分走っては駅に停まり、鉄道よりもバスといった風情の走り方をしていたのが印象的だった。
このような松浦鉄道の歴史を、ごく私的ではあるが次のように整理してみた。

私的・松浦鉄道の3世代
◉第1世代(明治〜昭和初期):石炭と有田焼の輸送を担う産業インフラ
◉第2世代(昭和):幹線と接続して長距離ネットワークを形成
◉第3世代(平成〜令和):新しい地域のモビリティーへ

私は単に趣味として松浦鉄道に乗りに行ったのだが、線路と車両で構成される「鉄道」という存在には、まだまだ新しい価値を作っていける可能性を感じたので記録しておきたい。

第1世代: 有田焼も運んだ産業インフラ

有田ー伊万里
私の松浦鉄道の旅は有田駅から。博多からの特急列車で午前9時すぎに有田に着いた。松浦鉄道はJRと同じホームから発車するので、JRのネットワークから切り離された感じはしない。
有田を9時36分に出発する松浦鉄道・伊万里ゆきは、1両だけの小ぶりなディーゼルカーで、乗客は私のほかに、お年寄りの男性と女性、高校生くらいの女の子の合計4人だった。発車間際に松浦鉄道の職員らしき3人の男性が乗ってきて、車両前後の運転席横に陣取った。おそらく線路の状態を確認するなどの業務にあたっているのだろうが、私としては全面の展望がきかなくなり少し残念。
九州の多くの鉄道が担った石炭の輸送に加えて、有田焼を伊万里の港から積み出すことが松浦鉄道の最初の使命だった。それとは関係ないのだろうが有田駅の構内には多くのコンテナが積んであり、いまも鉄道による貨物輸送が生きているようだ。コンテナのひとつには「オホーツク」の文字も見えた。
有田を定刻に出発すると、かつてこの鉄道が搬送した有田焼の焼き窯の建物が見える。そこから伸びるレンガ造りの煙突をサンタクロースが昇っている!(もちろん人形で有田駅で目にした地元のフリーペーパーにも紹介があった)。途中の駅は、駅舎やホームなどかなりの時代を重ねてきた面影があり、Wikipediaによると、明治時代の駅だ。列車は平坦な土地を30分ほど走って、10時01分、伊万里に着いた。

第2世代: 国鉄が結んだ長距離ネットワーク

伊万里ーたびら平戸口ー佐々
伊万里からは、10時07分発の佐世保ゆきに乗車。有田から乗った車両と同じ形式のディーゼルカー1両。先ほどよりは多い10人程度の乗車がある。やはり地元のお年寄りが多いが、途中の駅からは幼児を連れた母親の姿もあった。
浦ノ崎駅の近くで、その名前のとおり海が車窓にあらわれた。しばらく玄界灘に沿って走る。海沿いを走る鉄道は「旅をしている」気持ちを盛り上げてくれる。きょうは曇り空なので、気持ちが明るくなるような風景ではないが、空と水面の境界が溶けて全面グレーになった世界は、それはそれで抽象画のようだ。

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ところで松浦鉄道は地元では「MR」(読み方は、そのまま「エムアール」でいいのだろうか)と呼ばれているようで、国道に掲げられた案内標識にも「MR浦ノ崎駅」と表記されていた。
途中、調川という駅がある。これで「つきのかわ」と読む。かなりの難読駅名だ。やがて列車は長崎県に入り、路線の名称にもなっている松浦駅に着いた。ここで乗客の8割がたが下車していった。
松浦から、たびら平戸口を経て佐々(ささ)に至る区間は、駅と駅の距離も長くなり、岬の付け根の部分を通り抜けるためのトンネルも増える。田舎のローカル線の雰囲気になる。
鉄道好きの視点でいうと、こういう路線は経済性を重視した(軽量な感じのする)第三セクターのディーゼルカーではなく、もう少し重厚なつくりの国鉄時代の気動車、そして贅沢は言わないが少なくとも3両編成以上をつないだ「列車」で通過していきたい気持ちがある。
鉄道旅行の体験としても、この「列車にのっている」感覚は大切だと考えていて、いまの松浦鉄道のように1両のエコノミカルな車両では少し物足りないと感じてしまうのだが、これはあくまでも趣味の視点である(ちなみに、そんな望みをかなえる企画もあった模様)。
この旅に出かける前、旅行作家である宮脇俊三氏の作品で「予習」をしてきたのだが、著書『最長片道切符の旅』の中で著者は国鉄の松浦線に乗っている。当時(1978年)は、博多から松浦線を経由して佐世保に向かう急行列車「平戸」も走っていた。国鉄のネットワークに組み込まれていた時代だ。
さて、11時17分、日本でいちばん西にある駅「たびら平戸口」に到着、ここで列車を降りた。

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改札口からホームの側面を眺めると、3回ほどかさ上げされた様子が、まさに地層のように重なり、この鉄道の歴史の重なりを感じさせる。駅舎には待合室ほどの空間に「鉄道博物館」が併設されていて、昭和時代の松浦線を中心に写真や切符などの資料が展示してあった。
駅舎の横にある「日本最西端駅の碑」を眺めたり、15分ほど歩いた町で昼食を食べたあと、ふたたび駅に戻り、12時48分発の佐世保ゆきに乗った。これも伊万里からの列車であるが乗客は誰も乗っていなかった。たびら平戸口からは私を含めて3人が乗車。
ところが次の西田平から10人以上の中学生が乗ってきて、これ以降、終点の佐世保まで中学生、高校生、お年寄りなどで列車はけっこうな賑わいを見せた。この層の乗客たちが、いま、そしてこれからの松浦鉄道を支える大切な乗客なのだ。

第3世代: 新しいモビリティーとしてのチャレンジ

佐々ー佐世保
たびら平戸口から約40分で、佐々(ささ)駅に着いた。沿線の中心的な町であるらしく、ここから佐世保の間は列車の本数も増える。上記の宮脇俊三『最長片道切符の旅』には次のような佐々駅の描写がある。

構内は広く、側線が七、八本もあるが石炭車の姿はない。蒸気機関車用の給水塔や転車台が 廃墟 のように残っている。ここは廃線になった 臼ノ浦線の分岐駅であった。
(宮脇俊三『最長片道切符の旅』)

この文章が書かれた40年前と違って、2019年の佐々駅の構内は広くはない。おそらく「側線が七、八本も」あったと思われる場所は駐車場になっていて「パークアンドライド」の横断幕がかかっている。「臼ノ浦線の分岐駅」との記述があったので、あわててGoogle mapで「臼ノ浦」を検索し、その方角の見当をつけて車窓を注視してみたところ、果たして臼の浦線の線路の痕跡が田んぼの中に確認できて嬉しくなった。
ここから終点の佐世保までの間19.8kmには、16の駅があり平均して1.2km走ると駅がある(ほぼ山手線と同じ)。中でも、中佐世保駅と佐世保中央駅の間はわずか200mである。
これは最近の経営戦略のあらわれで、1988年の松浦鉄道開業当初に32だった駅は、いま57にまで増えている。したがって列車は駅を発車して加速したかと思えば次の瞬間には駅に止まる、鉄道よりは都市部を走るバスの走りに近い。
佐世保駅のひとつ前、件の佐世保中央では20人ほどの中学生、高校生が一挙に下車するシーンがあり、ひとつしかない車両の出口が詰まって発車が2、3分ほどの遅れが発生した。私は佐世保から2分後のJRに乗り換える予定があったので気を揉んだ。
オールドな鉄道好きの期待値としては、重厚な編成の「列車」に乗って、変化に富む車窓と車輪とレールが刻むリズムに身を任せたい気持ちはあるが、予想外に新しい鉄道の可能性をを感じる興味深い体験だった。
ちなみに九州の鉄道では初めて貨客混載にも取り組むらしい。

私も全国の鉄道をくまなく知っているわけではなく、ほかにもこのようなアップデートに挑戦している鉄道はあるのだろう。
ともかく、鉄道好きはもちろん、歴史や社会学、地政学、あるいは経営といった視点でも楽しめる、何かと可能性を感じた松浦鉄道の旅だった。

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