What're we "living" for? #僕たちは何のために
はじめに
私には20年来の大切な友達がいる。
その友達は「delta-1」もしくは「はがね」とこの2つの名前で
インターネットの世界で存在を認知されていた。
そんな彼の名前は、嶋岡 鋼(しまおか はがね)という。
はがねちゃんといえば、初めてメールで会話をした時に最後の1行に
「嶋岡 鋼(本名)」と態々添えたあの一文が個人的に忘れられない。
彼の綴る言葉はファンタジーな側面もあり、なんか闇な部分もあり
「楽しくやろう」とBBSには書いているのに訪問し・投稿する人はそれに反して
落ちてる最中の病んでる言葉を落としていくことが多く全然見てる側は楽しくなくて(笑)
だけど寄り添っているレスをちゃんとしたり、冷静にツッコんでいたり。
とはいえ受け止めすぎてこの方は大丈夫かな?と心配していたから
あの本名だと敢えて名乗った一文はかなり私にとってインパクトが強く…。
「delta-1以外に別人格として更にこの名前別名だったら大変だろうな。
とりあえずはがねというHNが別名義じゃなくて本名で良かった…」
だいぶ年長の方に対して若造の分際で余計なお世話なんだけど(笑)
なんかこの方も抱えている荷物がたくさんありそうだったから
彼が使い分けて「目の前の何かに逃避している人」ではなかったことに
とにかくものすごく安心したことを昨日のことのように私は覚えている。
はがねちゃんは歌も文章も・そして話がとても上手な兄のような存在。
そしてとても複雑で・とても不器用で・とても繊細なお兄さんだ。
そんなはがねちゃんの職業は医師。
だけど私ははがねちゃんの医師としての姿をあまり知らない。
とりあえず私の知っている彼について思いつくまま並べてみようと思う。
・常に嘘偽りなく包み隠さず"狂気込み"で自らのありのままを表現できる人
・文章や音楽や好きなことにいつも全力投球する人
・楽器の数がすごい
・車が大好き(当時のはがねちゃんといえばKa)
・浩宮様似
・ちょっとだけ皮肉屋(だけど今はそんな側面は殆どないけど)
・博学でいつも話題が尽きない
・双子の弟に「はなげちゃん」がいる
・ドリフとボキャ天が好き(とにかく自分とお笑いのツボは同じ模様)
・ありのままの自分を愛したいけど先に自分以外に愛を注いじゃう人
そんなお仕事のこと抜きでワイワイご飯を食べたりすることはよくあり
福岡に住んでいても東京に私が転勤で住むようになっても変わらない。
たくさんの出会いを連れてきてくれるかけがえのない心の兄であり友達だ。
そんなはがねちゃんとの出会いに遡ることになる時に
私がかつて抱えこんでいた暗闇込みの昔話をどうしてもしないといけない。
興味がない方はこのまま閉じてもらってかまわない。
ここでは私とはがねちゃんと出会うまでの話を中心に綴ろうと思う。
はがねちゃんに出会うまで
彼と出会った当時、私は社会に出たばかりだった。
当時の私は「色々な違和感」に疲弊し社会不適合者だという劣等感の塊。
(今でも本質的な部分は変わらない)
私には生まれながらの「持ちもの」がある。
それは普段の生活を送っていても殆どの人に気付かれることはきっとなくて
100%他人に理解してもらえることは、もうちょっと医学が進歩してくれないと絶対にあり得ない「持ちもの」だ。
最近ようやくぼんやりメディアでも取り上げられ始めているけれど
全く同じこの暗闇を分かち合える人は、私が生きているうちにはきっと現れないだろう。
畏った場の分別がつかない・善悪はわかっているけど他人に見えない配慮ができない。
「相手と呼ばれる他人」の感情が、基本的に殆ど理解できない。
表現するなら毎回そういう人の機微を知ろうと探るために前に進むと何も見えず、暗闇しかないトンネルの行き止まりにぶつかってそのまま何も出来なくてうずくまる感じ。
顕著に出ていた時期なんかは、そういう自分の一面に遭遇した人に数え切れないほど
「あなたには情がない」だったり「あなたには心がない」という言葉を浴びせかけられた。
一番この傾向が顕著だった時期は、一番の理解者であろう家族との軋轢も数え切れないほど生まれた。そして傷ついた。
一番私にたくさんそんな言葉を浴びせかけたのが、そんな家族だったからだ。
だけどその分たくさん私は存在しているだけで多くの人を傷付けていた。
今でこそ「え?そんなことないよ?」「それ嘘でしょう?わかんないよ」
そうおっしゃってくださる方が殆どだけど、それは日々を積み重ねたから。
相手といる景色と言葉・人の顔の表情などを目に映ったものを映像として覚えていて
(テープやメモリの制限がない動くハイスペックなカメラをずーっと回しっぱなしな生活を送ってる、というニュアンスが一番近いかもしれない)
無意識のうちに年を重ねることで膨大な記憶が蓄積されていて・それを再生して学習してこの道を歩いているからだと思う。
そんな膨大な記憶力と引き換えに私は「忘れること」ができない。
今も人と話をする時・人と接する場面・1日の大半を過ごす外の世界に出る時は
これまで経験した感覚を含めた記憶を過去の経験と照らし合わせてコミュニケーションを取って生活を今日まで送っている。
余談だが私は忘れることができない代わりに、ようやくここ数年で
記憶の取捨選択をすることと「自分の人生レベルで要らないから覚えない」
そんなゼロか100かの振り切りを実践することができるようになった。
(「忘れる」ということってきっとこういう感覚なんだろうな…)
おかげさまで年を重ね・経験値が増えて生きやすくなってきているけど
10代の頃は未熟ゆえにとにかく外の世界がとても怖くて
人が嫌いというわけではなく「自分以外と接すること自体がストレス」で
10代の頃はとにかく「生きにくい・だけど自ら命を絶つ理由もない」
そんな複雑で些細なことで「自分以外の人」と関わることそのものが辛くて
毎回傷付き・ボロボロになってしまう日々を送っていた。
家族が人の生死に日々向き合う職業だったおかげで、最悪な選択肢は絶対に選ぶまいと決めることができたけれど、もしも私がこの家族のもとに生まれなかったら正直私は今此処にいなかったと思う。
云うまでもなく家族には何も罪もなくて全然悪くないのに、そんな私の世界のことを何も知らない家族の振る舞いを無神経に感じていたから
日常を一緒に過ごしたり接すること自体がストレスになっていて正直ずっと10代の頃は苦痛だった。
(この感覚については申し訳ないと過去の振る舞いをお詫びできても今も説明がきちんと家族にできない。このことは一生背負おうと思っている)
だから学校の最終学年になったばかりの頃は絶望感でいっぱい。
ちょうど超氷河期と言われていた時代だったし・えもいわれぬ暗闇を説明できずに塞ぎ込んでいる日々を過ごし「欠陥だらけの自己」を認識していた。
自分は絶対に就職できないと思っていたし、近い未来で社会と繋がる世界に自分がいることなんて全く想像ができなかった。
だからせめてちゃんと就職活動は結果よりとにかく最大限のことをやろうと決め、
面接の時に面接対策として「聞かれたことだけに答えなさい」という普段から私の人との関わり方の癖をよく知る父のたったひとつの言いつけを守り
会社の選考面接について素直に聞かれたことだけこう答えた。
面接官:「5年後の自分はどうなっていると思いますか?」
私:「明日生きているかも分からないので5年後のことはわかりかねます。
だけど、目の前のやるべきことをきちんとやって"なにかに"貢献します」
そう答えて一目で役員とわかるオーラある方に声を上げて笑われた。
もうダメだと盛大に落ち込んで帰ったのになぜか次の選考に進んでしまい
そのまま正社員として所謂大手と呼ばれる上場企業から内定をもらった。
そんな経緯であっさり就職活動が終わり「会社員」になってしまった。
入社してから事務センターという本部直下の部署に配属された。
新しい仕事をOJTの先輩に教わってもこれと言ってつまずくこともなく
大きな壁にぶつかることなく自分のチームの仕事を早めに覚えてしまった。
他の同期と違って「新人さんが」という枕詞を先輩につけられることも
甘やかされることも・ビシビシ厳しくしごかれるということもなかった。
いつの間にか先輩と世間話のように仕事の会話がスムーズに出来ていた。
うまく説明できないけど先輩たちに教わったことや経験則を基に考えてみて
規則的にやっていたら色々こなせていただけなのに・気づけば「出来る人」と言われていた。
勿論それは他人の評する「出来る人」である。
これが私にとっての社会に出てから最初の違和感ある日常の始まりだった。
自宅と会社の往復・そして時々同期とのおバカながらも楽しい飲み会。
同じ年なのにはじけている姿を見て「若いなーみんな…まぶしいわー」と
仕事以外ではずっとそんな友人たちをボーッと眺めている時間を過ごした。
そして同期には「面白い人」「天然」「変人」といじりも含めよくそう言われていた。
私が私のことをどんな人であるかを自分の言葉で決めたり評する前に
「会社員である私」のことを他人が色々と「こんな人」だと決めていった。
社会人2年目に差し掛かる頃から辛さが増してきていることに気付いた。
…とにかく私が想像していた「社会人」と全然違っていた。
私の想像していた「社会人」は学生の頃よりトゲトゲしている世界で
とても怖くてもっと受け入れてもらえない場所だと思っていたけれど
歩くだけで何かの言葉が刺さって毎日傷つけられることはなかった。
むしろ面白くて笑うことが学生時代に比べて格段に増えた。
「覚悟していた恐怖」はそこには全然なかった。
だけど自分がどんな人かを自分でも碌に説明出来ないし語れないのに
これから先ずっと・一生「あいつはこんな人だ」と知らないところで
自分以外の自分のことを碌に知らない他人に何者であるかを決められてしまうような気がして
そしてそんな決められた人やものに引っ張られてしまうんじゃないかという
違う怖さでいっぱいになってしまっていた。
ごはんも固形物が食べられず一気に体重も10キロ落ちた。
…そして気付けば自分との対話と考え事を隙間を埋めるようにずーっとしていた。
仕事中もそれ以外も四六時中ずっと飽きることなくしていた。
学生時代よりもたくさん考え事をすることがどんどん増えていた。
「社会人=こんな息苦しい生活が一生続く」
戸籍上20歳になっても自動的に大人になんかなれないんだよバカー!
大人になんてなりたくない。
私だけ死ぬまで大人になるための時間の猶予が与え続けられて欲しい。
とにかく息が苦しくなった。キャパを超え無数の言葉が溢れかけていた。
このままでは仕事もできなくなるんじゃないかと怖くて仕方なかったし
生きているだけで社会や他人にひたすら迷惑をかけ続けるだけの人生になるんじゃないかという不安が生まれていた。
はがねちゃんとの出会い
ちょうどそんな時に社会人になって初めて買ったパソコンが休日の拠り所。
インターネットがようやく一般家庭に普及した頃だった。
ネットサーフをして好きなアーティストのファンサイトに遊びにいくうちに
同年代の運営者との交流が生まれて、たくさんのメール交換をしていると
自分もホームページを作ってみたくなってサイトを開設して運営を開始。
ホームページの名前はピンと来て「healing cafe」と命名した。
(今年、このnoteのSalesforce以外のマガジンの名前として復活させた)
運営当初は「好きなバンドのライヴに行った」「このアルバムや曲が好き」など
レビューを書いたり、これまでに感じた話を想いのまま書いてみたら何度も訪問してくれる方との交流が生まれた。
ネットの世界は自分の身近にいなくて一度も会ったことのない人が等身大の自分を受け入れてくれた。
ネットサーフという趣味からホームページは「自分の居場所」にいつの間に変わっていた。
だけど相変わらずとても辛くなってきた日常から逃げる勇気もなかったし
言葉がたくさん溢れかえっていて思考に収まりきれなくなったから
そんな時に感じたこと全てを1日ずつサイトに淡々とまとめることにした。
「今日の出来事」と、他人から受け取った印象の残った「今日の一言」を
好きなだけ好きなことを気が済むまで淡々と綴ってサーバにupしていた。
サイトを他人に見てもらう目的があるんだろうけどそんなのは無視。
当時の私は今以上に「書きたいことがあるから書く」というスタンス。
とにかく気が狂ったように書きたいことを好きに書いてupしていた。
「なんでそんなオチがないことを淡々と書いているんだ?アホか!」と
今の私が当時の言葉を読むとすかさずツッコミを入れているだろう。
それくらいあの当時社会に出たばかりの辛かった反動がものすごかった。
ひたすら綴ることを数ヶ月続け、自分の不安を自分でどうにか和らげるべく過ごしていたそんなある日、私のBBSにコンタクトくださったのが
私のサイトと相互リンクをしていたHALのファンサイトから遊びに来てくださったdelta-1さんだった。
はがねちゃんと繋がってから
そんなdelta-1さんとほどなくメールでやりとりが始まり、お互いのサイトを行き来する時期を経て東京でお会いすることになった。
初めて会ったdelta-1さんは、ニューロックのブーツとハロルズギアのジャケットを着た足の長いシュッとしたお兄さんだった。
ご飯を食べてワイワイひとしきり盛り上がってからこんな言葉を私に投げてくれた。
「キョウコちゃんって文章を書くのが上手だね」
「キョウコちゃんはずっと変わりたくないんだね」
「そこに行きたくないって言い続けていいんだからね」
「ずっと思考し続けてもいいし無理に答えを出さなくたっていいんだよ」
…そして私に「永遠のモラトリアム人間」という二つ名を授けてくれた。
この二つ名は今も私のSNSのプロフィールにも必ず冠し大切にしている。
あの時受け取った言葉と時間はとても意味があるものになった。
実際にはがねちゃんとお会いしてからそこから一気に楽になれた。
はがねちゃんがこの生き辛さを抱えていくことが悪くないんだ、と
不器用にもがいていること含めて私を肯定してくれた初めての人だったからだ。
…そしてそんな彼との出会いからあっというまにとても長い時間が経った。
私も年を重ねたけれど・毎回会うとはがねちゃんにこう言われる。
「ホント杏子ちゃんって変わらないな。うん、全然変わんない」
これは最上級の彼の私への誉め言葉だと今でもそう勝手に思っている。
そしてとても嬉しい。老け顔だからかもしれないけどやっぱり嬉しい。
初めて会って以降、交流はホームページからSNSに場所が移っても変わらず
東京以外でも福岡や栃木とお互いのホームタウンにそれぞれ足を運んだ。
(なぜか自然に予定が合って、たっぷり話す時間が取れるという…)
気付けば物理的な距離を通り越して彼の大好きな後輩・親友・大切な方々と直接私自身ともオフラインでご縁が繋がっていた。
はがねちゃんから繋がったご縁からそんな彼らとも10年以上のお付き合いをさせていただいている。
はがねちゃんにはとにかく数え切れないほどの人としての魅力がある。
それなりの闇もあるけれど、抱えている闇さえも愛しながらゆっくりだけど着実に止まらずに進める。
そこらへんの人がなかなかできないことを彼はサラッとやってのけてしまう。
「明日をきちんとまっすぐ歩くために私の感覚を整えてくれた人」
はがねちゃんは私が前を向いて進むきっかけをくれた恩人なのだ。
What're we "living" for?
昨年、はがねちゃんは50歳になった。
節目の誕生日を迎えて彼は「残りの時間を世界の人のために生きたい」と
SNSや誕生日のLIVEで発信をしていたことがここ最近とても印象的だった。
ここ数年で一気に肩の力が抜けたような柔らかなお姿になったけれど…。
最近はお仕事ではどのような活動をなさっているんだろう??
機会があったらお仕事について改まって話が聞きたいな…と思っていた。
はがねちゃんの人生、後半戦をどのように使っていくというのだろう?
そんな中、思わぬ機会がやってきた。
現在彼が携わっている活動を通して、新たなご縁が生まれたという
かつてこの書籍が映画化され医師・小説家として活動なさっている
葉田甲太さんが先日新刊を出版し、出版記念に全国で講演することとなり
はがねちゃんが栃木の講演で葉田さんとご一緒することになったのだ。
葉田さんは「僕たちは世界を変えることができない。」の著者。
この著書は向井理さん主演で映画化されている。
そして先日、クラウドファンディングでタンザニアの僻地に病院の開院することを目指すプロジェクトを達成したばかり。
私もこの活動に僅かばかりだけどお手伝いさせてもらった。
ページに寄せられていた葉田さんの文章がとてもまっすぐで惹きこまれた。
素敵な方とご一緒なさっているんだな…とそう思っていたので
この講演でおふたりにお会いできることがすごく楽しみだった。
講演当日、宇都宮に到着した私はうっかり会場時間と開演時間を間違い
30分早く会場に到着してしまったことに気付き、一度会場を出ようとした時に偶然はがねちゃんご一行に遭遇。
「杏子ちゃん、今日はありがとう。今日の講演は僕にとってライヴなんだ」
当日講演でいただいた笑顔溢れる写真と魂のこもった葉田さんの著書と温かみあふれたはがねちゃん自作のブックレット。
「明日生きているかも分からないので5年後のことはわかりかねます。
だけど、目の前のやるべきことをきちんとやって"なにかに"貢献します」
私が社会に出るきっかけになった自分が発したあの言葉がフッとよぎった。
「何のために・どんな気持ちで・どう時間を使ってゆく?」
私はこれまでなにかに貢献したかを自分の言葉で語れていないけれど
なんとなく誰かに必要とされているんだろうな、というか細い実感だけで
答えが出ないまま「今しかない」という衝動だけで社会と繋がっている。
私は今回のはがねちゃんのライヴであるこの葉田さんとの講演の時間が
東京で初めて出会った時以上に大きな意味のある時間になると確信した。
…嗚呼、とてつもなく記事が長くなってしまった。
次回の記事ではがねちゃんとはがねちゃんから新たにこの講演を機会に
直接ご縁をいただいた葉田さんの講演について綴りたい。
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