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ロココ 甘美の時代

ロココ。甘い響き。
優美、享楽、ロマンティック。

ロココはフランスで生まれた18世紀の芸術様式。
マリー・アントワネットたちが華やかに遊び、女性的で優雅な文化が生まれた時代です。
リボンやバラのジュエリーもこの時代愛され、その繊細で甘美な感性に美しい夢を見ます。

その麗しい時代を築いた女性たちや芸術家たち。
その人生からは、優雅な美へのヒントを得られます。

【ロココの女性たち】


ポンパドゥール侯爵夫人(1721-1764)

華やかで優雅なロココ文化。その時代の代表的な人物といえばマリー・アントワネットですが、それ以前のルイ15世の時代、ロココ様式を広めた中心人物は、ポンパドゥール夫人でした。

フランス国王ルイ15世の公妾。その美貌から「ロココの華」とも呼ばれます。
本名はジャンヌ=アントワネット・ポワソン。
パリの裕福な銀行家の娘として生まれ、平民ではありましたが、貴族の子女レベルの教育を受けて育ちました。

20歳の時に結婚すると、一流のサロンに出入りするようになります。
そこで多くの文化人たちとも交流を重ね、才色兼備の夫人として有名に。
その時に見初められたのが国王ルイ15世。
国王は彼女に「ポンパドゥール侯爵夫人」という称号を与え、公式の愛妾として迎えました。

芸術の愛好家であったポンパドゥール夫人は、多くの芸術家たちのパトロンとなります。
また、自身でもサロンを開き、芸術家や思想家たちとの交流も盛んに行いました。
当時こうしたサロン文化は知的な女性たちの間で広まり、そうしたサロンの室内を飾る装飾や家具は、自然と女性的で繊細なデザインが流行していきます。
優美なロココ様式はこうして花開きました。

やがてポンパドゥール夫人は、政治に関心の薄かったルイ15世に代わって権勢を振るうようにもなり、フランスの影の実力者ともなります。
彼女は42歳で亡くなるまで国王に寵愛され、ヨーロッパで、文化的、政治的に大きな影響を持ち続けた女性でした。

今の私たちが愛する華やかなロココ文化は、ポンパドゥール夫人の知性と芸術的感性、そして女性としての強さが咲かせたものでした。


マリー・アントワネット(1755-1793)

現代の女性たちにもロマンティックな憧れを抱かせるフランス王妃マリー・アントワネット。「ロココの王妃」「宮廷の華」と呼ばれたその美貌とドラマティックな生涯は、今でも私たちの興味を惹いてやみません。

マリー・アントワネットは1755年、オーストリア女大公マリア・テレジアの十一女としてウィーンで誕生しました。
幼い頃からその姿は美しく、音楽やバレエを愛好し、自由な環境で育ちます。
そしてオーストリアとフランスの同盟関係を深めるため、14歳の若さでフランスへ嫁ぎました。

自由な気風のオーストリアに比べ、厳しい慣習に縛られたフランス宮廷の生活は彼女にとって苦しさを感じる日々でした。
やがて夫であるルイ16世が即位、マリー・アントワネットはフランス王妃となります。
王妃になり自由な権力を得たアントワネットは堅苦しい宮廷の慣習を変えるようになり、それが貴族たちの不信感を抱かせるようになりました。
また、華やかな生活のための浪費が、当時日々の生活に苦しんでいた民衆たちの反感を買うようにもなっていきます。
国民はもともとアントワネットの以前からフランス王政に対して不満を持っていましたが、外国から来て自由でわがままなマリー・アントワネットは、そのような感情を分かりやすくぶつける標的となったのです。

1789年、民衆の不満は爆発し、フランス革命が起こります。
捕らえられたアントワネットは群衆の好奇の目にさらされる中、ギロチンにより処刑。
しかし最後までその気高い魂を見せ続け、37歳の若さでその高貴な生涯を閉じました。

マリー・アントワネットに対しては肯定的、批判的、様々な見方があります。
間違いなく言えるのは、誰もが関心を持たずにはいられない魅力を持った王妃であった、ということでしょう。

エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン(1755-1842)

ロココの終わり頃から活躍した、18世紀の有名な女性画家。
画家の娘としてパリで生まれ、若くしてその画才を認められました。
その肖像画はモデルの美しさを見事に引き出していると評判に。
また彼女自身も美貌の持ち主として名が知られるようになります。

1776年に画家であり画商でもあった夫と結婚。
貴族の肖像画も依頼されるようになるとやがてヴェルサイユ宮殿へ招かれ、マリー・アントワネットの肖像画を描くようになります。
同い年でもあった二人は深い親交を結んでいきました。

しかしフランス革命が起こると、王室と関係の深かったヴィジェ=ルブランは外国へ逃れます。
数年間をイタリア、オーストリア、ロシアで暮らし、各地の貴族たちの肖像画を描いて生活していました。
やがて革命が落ち着くとフランスへ帰国。
その後はフランス美術界の中でも大きな存在であり続け、86歳で亡くなるまで創作を続けました。

ヴィジェ=ルブランの作品はその微笑みが印象的です。そこには画家の対象への愛や女性的な優しさが深く感じられます。

デュ・バリー夫人(1743-1793)

ロココの時代、フランス国王ルイ15世の公妾として、華やかで波瀾万丈の人生を送った女性。
デュ・バリー夫人、本名マリ=ジャンヌ・ベキューは、フランス・シャンパーニュ地方の貧しい家庭に私生児として生まれました。
10代の頃から男性遍歴を重ね、やがてデュ・バリー子爵の愛人になると、優雅な生活と引き換えに上流階級の男性たちの相手をするようになります。

そのような中、公妾であったポンパドゥール夫人を亡くしたルイ15世の目に留まります。
身分を変えるため、デュ・バリー子爵の弟と形式上の結婚をして「デュ・バリー夫人」と名乗り、正式に王室の公妾として迎えられました。

宮廷で大きな影響力を持つようになったデュ・バリー夫人でしたが、やがてオーストリアから嫁いできたマリー・アントワネットと対立するようになります。
卑しい身分を嫌うマリー・アントワネットと、かねてからデュ・バリー夫人をうとましく感じていた一部の貴婦人たち。
彼女たちの反発により、デュ・バリー夫人の影響力は徐々に弱まっていきました。

やがてルイ15世が天然痘で倒れると宮廷を追放されます。
そのような状況にも負けず、その後も貴族たちの相手をして、たくましくも優雅な生活を続けていました。
しかしフランス革命により捕らえられ、ギロチン台へ送られ群衆の前で処刑されました。

マリー・アントワネットの敵役として知られるデュ・バリー夫人ですが、貧しい身分から国王の公妾へと登りつめたしたたかさ、たくましさからは、一人の女性の理想に生きる強さを感じます。

【ロココの画家たち】


アントワーヌ・ヴァトー(1684-1721)

ヴァトー《シテール島への巡礼》

ロココ前期の画家。
ヴァトーはフランスのヴァランシエンヌで生まれました。
地元の画家のもとで学んだのち、彼はパリへと移ります。
華やかな作風で知られるヴァトーですが、この頃は当時の主流であった伝統的な歴史画や、生活のために戦争画などを描いていました。

やがて画家として認められるようになり、王立美術アカデミーの準会員となります。
そして美術界のトップである正会員となるため、一枚の絵を完成させます。
その絵が上にある有名な《シテール島への巡礼》です。

ここでは、愛の女神ヴィーナスが流れ着いた地中海の島「シテール島」へ若い男女が巡礼をおこなう場面が描かれています。
独特な優雅さを持つこの絵は他の風景画とも作風が異なるため、

「雅宴画(がえんが)」(フェート・ギャラント)

という新しいジャンルを生みました。
この作品で高い評価を得たヴァトーは美術アカデミーの正会員として認められ、その地位を確立しました。

画家として成功を収めたヴァトーでしたが、もともと体が弱く病を患っていたため、治療のためロンドンへ渡ります。
しかし病状は悪化。結局フランスへ戻りますが、帰国後しばらくして結核と思われる病のため、36歳の若さで亡くなりました。

短い一生でしたが、ロココ美術を生んだ偉大な画家であり、その作品はのちの芸術家たちにも影響を与えました。

フランソワ・ブーシェ(1703-1770)

ブーシェ《ポンパドゥール夫人》

ロココ盛期の画家。
1703年、パリに生まれたブーシェは画家であった父から絵画の手ほどきをうけ、その後版画の下絵の仕事でその技術を磨きます。

やがて作品が認められるようになり、1723年には優秀な芸術家へ贈られる「ローマ賞」を受賞、イタリア留学も経験しました。
パリに戻ったブーシェはバロック絵画の研究を重ね、1734年には「王立絵画彫刻アカデミー」の正会員としても認められます。
名声を得たブーシェは、ルイ15世の公妾ポンパドゥール夫人にも気に入られ、上にある彼女の有名な肖像画も描いています。

1865年にはルイ15世の「国王の筆頭画家」に就任。
同年には、アカデミーの院長の座にも就き、画家として大きな成功を収めたまま、1770年に世を去りました。

ブーシェの死後、時代がロココから新古典主義へ移ると、ロココ文化、そして彼の作品は否定されるようになります。当時行われたオークションでは、ブーシェの絵はほとんど値段がつかないほど人気は落ちていました。
しかし19世紀後半になると再評価されるようになり、彼の芸術が認められるようになります。
あのルノワールもブーシェの影響を強く受けた一人。二人の作品には、観た者を多幸感へと誘う空気が通じています。

ブーシェの作品からは、ロココの時代の享楽と甘美を色濃く感じられます。
彼の絵は、現代の私たちにも当時の優雅な雰囲気や香りを届けてくれます。

ジャン・オノレ・フラゴナール (1732-1806)

フラゴナール《ぶらんこ》

ロココ後期の画家。
フラゴナールは1732年、南フランスのグラースに生まれ、やがて家族とパリに出ます。
絵が好きだったフラゴナールは、ジャン・シメオン・シャルダン、フランソワ・ブーシェの二人の巨匠に師事。その才能はすぐに認められ、20歳の時には、王立アカデミーのコンクールで「ローマ賞」を受賞。イタリア留学も経験しました。
この頃はまだ歴史画の画家として知られていましたが、パリに戻ってからは時代に合わせ、ロココの作風へと変化。
客層も国家から個人の富裕層へと移ります。

この頃、画家として絶頂期を迎え描いたのが、上にあるロココ絵画の代名詞とも呼べる名作《ぶらんこ》です。
この絵はある男爵の依頼により制作されたもので、庭園のぶらんこに乗る愛人と、その足元を覗く自分を描いてほしいという注文でした。なんとも軽薄なテーマではありますが、フラゴナールはこのテーマを甘美な芸術作品に仕上げました。
ちなみに右に描かれている、ぶらんこを引く男性は、愛人である女性の夫ともされています。妻の浮気を夫が黙認するという、当時の解放的な恋愛模様も描かれています。

やがて時代はロココから新古典主義へ。
フラゴナールはまたも時代に合わせ作風を変えていきますが、その後は認められることはありませんでした。
世間からは忘れ去られた画家として、静かにその生涯を閉じます。

ロココ文化の終焉を生きたフラゴナール。
当時の絵画は堕落の美術として見捨てられた時代が続きましたが、19世紀後半になると再評価されるようになりました。
ロココ美術といえばフラゴナールの《ぶらんこ》が思い浮かぶ方も多いのではないでしょうか。
甘美な世界を描いたフラゴナールの作品は今も私たちを魅了し、優雅なイメージを伝えています。




美術史としては「貴族の快楽的な遊びの様式」とされ、軽く見られることもあるロココ美術。
しかし、ロココの画家たちの作品からは、「今この瞬間でしか味わうことのできない美しさ」「儚い人生を楽しむための快楽の追求」が感じられ、私はそこに強く魅了されます。

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