月すら遠く - 1(中編)

「入って、どうぞ」
「遊びに来たぜっ!」
 肩を並べるようにして入って来た二人を見て、僕の意識は再び沈没した。
 流石に二度目であるから意識が寸断されただとかそういう事は無い。視界がぼやけたり聴覚がくぐもったり、意識と現実の間に水中と陸上のような隔たりができた程度である。だがら、沈没というのは文字通りの意味だ。
「お、出迎えありがとうな。遠野」
 立ち尽くす僕の様子に気づいた風も無く、先輩がニカリと微笑みかける。だがその先輩の笑顔すらも朦朧ぼんやりとしたのっぺらぼうに見えた。むしろこの時の僕は先輩の隣にいるこの───石川の方がくっきりと見えていたように思う。
 断っておくが、僕は先輩に彼女が出来たという事を都合良く忘却していた訳ではない。その事実を忘れていたのではなく、その事実を受け止める心構えができた───つもりになっていた。それが、直接二人を見た事で脆くも崩壊したのである。
 そう。
 こうして目にするまで、理解できなかった。
 まさかこの人が先輩と───こんな風になるなんて。
 先輩に連れられて現れたその女性は、確かに僕も知っていた人であった。
 白いブラウスに、ボタン付きの黒いベスト。
 黒い丈長のスカートに、白いフリルの前掛け。
 鍔の広い、巨大な黒の三角帽子。
 その下には。
 三つ編みを一房横に流した、腰まで届く金髪。
 魔女の如き装いに全く似合わぬ赤縁の眼鏡。
 ほんのり雀斑そばかすの赤みが差した白い頬。
 快活すぎて馬鹿みたいな笑顔。
 いや、実際馬鹿ではある。
 箒でも担いでやって来そうなその出で立ちは。
 ───石川宇月。
 先輩の異母兄妹たる、れうさんの友達。
 腐れ縁も同然だったはずの、オタク趣味の女の子。
 このひとが、先輩の恋人に───なって、しまったのだ。
 ───なんで、この人が。
 見たくも無いのに、見てしまう。目が吸い寄せられるとはこの事だろう。
 正直この人のことは、あまりよく知らない。僕が知っているのは、先輩とれうさんの同級生であり共通の友達であった、という情報だけである。顔を合わせる頻度としてはそこそこ高かったし、言動がいちいち五月蠅くて馬鹿っぽいので、やたらと印象には残っている。だが言ってしまえばそこまでなのである。だから同じ大学に進んだとは小耳に挟んでいたものの、端からそ気にも留めていなかったというのが正直なところだった。
 それが突然何を血迷ったか、僕がずっと座りたかった場所にどっかりと腰を据えて。この場にもこうして、見せつけるように現れて。
 ───なんで来たんだ、この人は。
 未だ朧げな意識の中で、石川宇月の呑気な阿呆面だけがくっきりと映っている。大した考えも無さそうなのが余計に質が悪い。口を開けば溜息以外に出てくる気がしないのでしばし押し黙っていると、石川の顔が不意にはっと何かに気づいたように慌ただしく動いた。
「あっ、えっと、あの……あたしの事覚えてる?」
 石川は自分の顔を指差しながらとぼけたような事を訊いた。どうやら僕に訊いているらしい。向けられている視線の意味を勘違いしたようである。調子良く大見栄切って登場しておいて、いざ受けが良くないと察するや瞬く間に萎んでゆく。見ているこっちが恥ずかしくなる。
「いえ、そんな事は無いですけど……」
 こんなのを忘れ去るというのは土台無理な話だろう。風体も喧しさも一度見たら忘れようも無い。
「何やってんだか。困ってるじゃない」
 後ろから気だるげな野次が飛ぶ。いつの間にか僕の背後に、れうさんが立っていた。
「あ~……うん」
 石川はますます小さくなっていく。れうさんは手を腰に置いたままの姿勢を保ったまま、首の動きだけで僕を指してさらに石川を責め立てる。
「だいたい今日はコイツの歓迎会よ? なんで来たのよ、あんた必要?」
 身内や親しい人間だけに炸裂する、れうさんのいつもの毒舌が来た。何だかんだ僕はまだ一度も食らったことが無いのだが、これを直接受けなくて本当に良かったと思う。こうして見ているだけで少し苦しい。
「い、いやぁ、あの……」
 縮こまった石川がもじもじと弁解を始める。
「一応同じ高校だった訳だし、浩二の大事な後輩だし……あたしも参加した方がいいかな~って……」
「ウン、そういう事ですね……まぁ多少はね? 遠野もここ来るの初めてだしさぁ、やっぱ知り合いは出来るだけ居た方が良いと思うんだよな~」
 歯切れの悪い石川に先輩が助け舟を出す。理屈自体はありがたいのだが、残念ながら状況が全くもってありがたくない。
「はいはい、そういうコトにしとくわ。……とでも言うと思った? ねぇ聞いてんの? あんたよあんた、このステハゲ」
「ふぁっ……!?」
 れうさんの舌鋒の矛先がここで先輩の方へぐいっと向いた。
「理屈の話してんじゃないのよ。おかしいとか思わないの? こういう時に彼女呼んで来るって……ホントどういう神経? あんたこそ頭大丈夫なの? 他の人が気まずいだろうな~とか思うもんなんじゃないの? もうちょっと想像力とかつけた方がいいんじゃないの?」
 オオン、と先輩が間の抜けた断末魔を上げる。
 一刀両断、快刀乱麻━━━という調子だ。よくぞ言ってくれた、と僕は内心膝を打った。一言一句、僕の言いたかった事そのままだ。まぁしかしながら、れうさんもれうさんでこの二人に対して思うところがあるだけで、別に僕の心中を察してくれている訳でもないのだろうが。
 ったく、脳味噌にウンコでも詰まってんじゃないの───と食欲の失せるような暴言を吐くと、れうさんは口を鋭角三角形のように尖らせたまま、
「さっさと上がんなさい、このバカップル共が」
 と一喝した。
 ───バカップル。
 あぁ、そう来たか。
 厭な表現だ。
 まぁ馬鹿なのは間違いない。この際言うが先輩も馬鹿の部類だ。これは昔からそうなのだ。まぁもう少しはマシに見えていた気もするが、今はもう馬鹿丸出しだ。引き連れている連中までがこうも揃いも揃って馬鹿なのだから、台風でもない限りその中心が一番馬鹿に決まっている。ここは弩級の馬鹿が数多の馬鹿を吸い寄せる、馬鹿の太陽系だ。
 だがバカップル───というのは、単に馬鹿同士のカップルというのとは違う意味合いが込もるように思える。
 馬鹿みたいに惚気を撒き散らす二人。
 馬鹿が付くぐらい仲睦まじいふたり。
 馬鹿にしたくなるほどお熱いフタリ。
 そんな所だろう。
 想像するだに気色が悪い。吐き気がする。ショックと言うには妙に粘りっ気の強い不快な感触があった。
 ━━━二人が靴を脱ぐ。こちらにやってくる。
 僕は思わず下を向き、目を逸らしてしまった。れうさんがああ言うくらいだから、日頃そういう様を恥ずかしげもなく見せびらかしたりしているのだろうか。今二人を見ると、彼らがイチャイチャとしている姿がどうにも重なって見えそうで、とても直視できたものではなかった。
 顔見知りの情事など想像したくもない、というのは自然な心理ではあると思う。例えば、親が同衾している様を見て気が昂る者などまぁ居ないだろう。それと同じだ。自分の与り知らぬ所でそういった事が起きていると理屈では分かっていても、やはり見たくもないし、知りたくもない。秘め事とはやはり、秘められているべき事だからこそそのように言うのだろう。見知った顔同士の濡れ場が頭に過ぎるだけで、自分が厭になる。その上僕は先輩が好きだったのだ。親愛かそれ以上の感情を抱えている相手が他の知り合いとそういうコトをしている───それはもう、気持ち悪いとかそういう気持ちすら超越する。今脳内でぐわんぐわんと蠢いている悪夢のような想像が、ほぼ確実にこの現実に起こり得ている訳だ。あまりにも認めがたい。もはやそんな世界は、生きていく事にすら価値を見出せるか怪しい。詰まるところは最悪だ。
 バカップル───。
 想像したくもないことを無理やりにあれこれと想像させてくれる最低最悪のこの言葉によって、僕の精神状態はこの十八年で最も底に落ちていた。だがそんな事は一切構われる事なく、これから皆が待つダイニングに今から僕は暖かく迎え入れられる事になる。僕が一体何をしたと言うのだろうか。
「何突っ立ってんのよ。さっさと動け」
 刺々しい口調で我に返った。見れば先輩たち二人はとっくに玄関に上がっている。僕が邪魔でつっかえているのだ。僕が思考のどん底に沈んでいる時間はそれほど長くは無かったらしいが、れうさんを苛立たせるには十分だったようだ。二年前から目に見えて横に大きくなった彼女は文字通り、障害物を見るような目で僕を見ている。動かないなら蹴ってどかすぞ、とでも言いたげな冷ややかな顔つきだった。やっぱりこの人も、別に僕の事は歓迎してくれてはいないのだ。大方早く飯にありつきたいのだろう。
「ホラ、いいよ入って入って。俺らはついてくから」
 先輩にも促され、僕は重い一歩目をようやく踏み出した。
 浩さんはもう先に入っていて、玄関に残っていたのは僕とれうさんを入れた四人だった。廊下に入ると、自然と二人二列になった。
 隣のれうさんは僕が来た時とほとんど変わらず、腕を組んで気難しそうな顔をしている。こちらに目をくれる様子はない。たぶん彼女にとって僕は、単にご馳走の引き金のようなものなのだろう。
 先輩は石川を、石川は先輩を見ている。何やら楽しそうに喋っていた。どうやら帰宅道中にしていた話の続きらしく、聞こえはしたものの何の話なんだか少しも分からなかった。
 僕は━━━ただ俯いて床を、底を見ている。
 床は前方へ、居間の扉までまっすぐに伸びる。その床を左右から挟むように壁がある。ほとんどの一般家屋の廊下とは、そういう風に一直線の構造だろう。だがこの家の廊下は、左右の壁に開いた間隔───つまり幅が、普通の家より多少広い気がする。四人もの人が同時に家の廊下を通り抜けるとなると、大概はもう少し窮屈に感じるものではないか。それが今はこれだけ人が居ても、それほど狭苦しさがない。
 昔───正確に言えば一年以上前、つまりここに越す前の先輩の家はこんなに広くはなかったと思う。むしろ人数の割にひどく狭かった気がする。確かに大所帯なのだから、相応の大きさの住居に引っ越すというのは自然な成り行きだろう。
 でも、少し変わり過ぎだ。これでは僕は━━━
 先輩の声も、向こうから漏れてくるやみんちゃんや栞奈さんの鼻歌も。みんな、なんにも変わっていないのに。
 くすんでいたあの壁の色は、眩しいくらい白くなって。
 漂っていた夕飯の香りは、新築らしい建材の匂いに紛れて。
 実感を失い、確実に僕の記憶から遠のいていく。
 僕を置いて、みんな何処へ行ってしまうのだろう。
 僕は底を見つめて、そんな事ばかり考えていた。 

 キッチンの方では着々と配膳の準備が進んでいた。
 れうさんがスタスタとリビングの方に行ってしまうのとすれ違うような形で、空手部連中たちが僕を出迎える。
「優しい後輩だなぁ田所。ドアの音した瞬間ものすげぇ速さで玄関に飛んでったからびっくりしたゾ」
 三浦が声を掛けてくる。相変わらず聞いていて力の抜けるような野太い声である。
「先輩も高校では人望あったんですね!」
 木村がしれっと先輩を茶化した。三浦曰く優しくない方の後輩である。距離感が通常の新一年とはまるで違っていて、恐ろしく馴れ馴れしい。
「おい木村ぁ、何だよその言い方。今もあんだら?」
「ナオキです」
「ぬっ!」
 反駁する先輩を妙な単語で木村が切って捨てる。恐らく否定的な意味なのだろうが、どんな漢字を当てるのか全く見当がつかない。どちらかというと名前のような響きの単語だ。
 その言葉を聞いて、石川が突然吹き出す。
「ちょっ、おいっ! 流石にナオキは言い過ぎだろ~!」
 何だそれは。何が面白いのか全く分からない。
「何だよ宇月まで……辞めたくなりますよ部活ぅ~」
 そんなに酷い意味なのか、ナオキというのは。
「あぁ?  そりゃ聞き捨てならねぇな田所」
 ナオキの烙印を押され不貞腐れる先輩へ追い討ちをかけるように、威圧感のある声が投げかけられる。顧問の秋吉先生である。ぬっと現れた長身から、思わず震え上がってしまいそうなオーラが炎の如く漂っている。その剣幕に気圧され、先輩とナオキな仲間たちは瞬く間に小さくなっていく。
「いやっ、あ、あの、違うんです。これはあの、言葉のアヤで、ふたいたいは……」
 あまりにも情けない。こんな先輩は昔はあまり見なかった気がしたのだが、秋吉さんほどの強面に凄まれたら無理もなかろうと思う。
「口答えすんな。お前らには罰を与えっからな」
「ファッ!?」
「いやそんな、なんで僕らまで……」
 木村が狼狽する。うん、いい気味だ。当事者なら心臓が飛び出そうだが、傍から見ている分には少し滑稽に感じられる。
「うるせぇ。お前らなんで今日この場所に居んのか分かってんのか?」
「そうよ、先生のおっしゃる通りだわ」
 ぴしゃりとした声が響き、腰砕けになっただらしのない野郎連中の背筋を伸ばした。
「パーティーの主役ほっぽり散らかして仲間内でどんちゃん騒ぎして……タダで済むと思ってるわけ?」
 栞奈さんのオカンっぷりはこれだけ人が増えても健在だった。
「あっ、そっかぁ……」
 三浦が虚空を仰ぎ、魂の抜けたような顔で得心する。最年長の余裕なのか素の性格なのか、対応が随分と暢気なものである。
「さ、分かったらさっさと用意の手伝いしなさい。皆お腹が空いたの、ねぇ浩さん?」
「あ、あぁ。この調子じゃ歓迎会になんないから……早く手伝っ───」
「お~あくしろ~!」
 浩さんの声は、一番下のやみんちゃんの野次に見事に遮られた。相変わらず立場が弱そうである。
「おう、親父さんの言う通りだ」
 秋吉さんがすかさずフォローを入れた。あんな車の趣味を持ちながら、意外とこの中では良識派なのかもしれない。
「テキパキやれよ。じゃねぇとメインディッシュはやらねぇぞ?」
「押忍っ!」
 畏るべき大人二人の檄を受け、空手部員一同は人が変わったように機敏になり台所の方へと吸い込まれて行った。まさに体育会系という感じの絶対的な上下関係が彼らにはしっかりと形成されているらしい。木村にそれが既にあるのが、かなり奇妙ではあるのだが。
「あ……」
 石川が何か言いたげに口を開いた。しかし秋吉さんももうキッチンへ戻ろうとしており、その声が誰にも聞こえることはなかった。彼女はそのまましばらくの間つっ立って先輩たちへ何かを言おうと試みていたが、やがて諦め僕の方をちらりと一瞥した後、リビングの方へ歩いて行った。
 一体何がしたかったのだろう。まさか彼らを手伝う気だったとでも言うのだろうか。釈然としない気分で、僕は食卓に座って待つ事にした。この際せっかくの主賓なのだからどっしり構えていよう━━━と僕は完全に開き直っていた。
 アルコールの瓶だか缶だか、はたまたソフトドリンクのボトルだかが入り交じるカラフルな卓上に、栞奈さんの手料理やら秋吉先生の捌いた刺身やらがドカドカと殺到してくる。まさに今のこの田所家と同じような状態だ。
 むさ苦しい空手部連中に、いつもやたらと鮮やかな服を着ている女性陣。この家の女性はやみんちゃん以外、何故か全員紅白の巫女服のような普段着を着ている。これではまるで縁日の屋台幕だろう。男たちの装いはそれで言うなら、同じ屋台は屋台でもラーメン屋辺りにでも屯していそうだ。人物も食べ物も関係も、見ているだけでカロリーが高い。その中に、葬式の鯨幕のような装いの石川宇月が居る。色の取り合わせ然り会合の趣旨然り、様々な意味を込めて場違いである。
 その石川は部屋の隅っこ───リビングの方のテーブルに座って縮こまりながら、やみんちゃんや紅海月みづきちゃんの相手をしているように見える。栞奈さん以外、女性は皆リビングの方に固まるらしい。今の人数より食器が一人分多いので、沙奈さんも帰宅次第合流するのだろう。
「あんなウンコ色のどこがいいんだか、ほ~んと分っかんないの!」
 キャハハ、と紅海月ちゃんの黄色い笑い声がこっちまでよく聞こえてくる。彼氏の事でいじられながら、石川が肩身の狭そうな顔で苦笑いを浮かべていた。たぶん、ああいう子の相手は苦手なのだろう。なんというか多少気持ちは分かるので複雑である。
 食卓の方には僕と先輩を含めた七人が座る。先輩の両側は空手部二人が占め、その向かいは僕の左側から順に浩さん、栞奈さん、僕を挟んで秋吉さん───という具合に並ぶ。面白いことに、置かれた箸や飲み物の取り合わせが皆違うので、本人が座っていなくとも何となく座席配置が分かる。例えば先輩以外の空手部員は当然ながら割り箸で、その中で一つだけソフトドリンクが置いてあるのは未成年の木村の席だ。三浦の席には缶ビールが一本、秋吉さんの所にはえらく物騒な名前の銘柄が入った一升瓶が鎮座している。お猪口が三人分置いてあるので、僕の両隣の大人たちだけで開けるのだろう。
「ん? キミも飲むかい」
 観察する僕を覗き込むように顔を屈め、浩さんが冗談めかした事を言う。
「こら浩さん、先生もいらっしゃるんだからそういう事は言わないの」
「そうそう、ガキ共にゃ早いっすよコイツは」
 最後の一皿を持って現れた厨房担当の二人がたしなめる。何かこの二人は妙に息が合っているようだ。浩さんは少し気まずそうに笑って打ち消した。
「さ~て、これで全部よね?」
「押忍! あとはグラタンだけっすね!」
 鬼顧問の監視下に置かれ、先輩は母親にまで敬語を使っている。木村が少し噴き出していた。舐められ過ぎだろうに。
「よし! じゃあ始めるぞお前ら、席につけ」
 空手部の着席で目の前が一気に埋まる。皆随分と楽しそうな顔である。
 こちらの視線に気付いて無駄に爽やかな笑みを返す木村。
 瑞々しく鮮やかな食い物たちに目を輝かせる三浦。
 そして、厭になるくらい昔と変わらぬ顔で微笑みかける先輩。
「おうし……じゃあ浩さん、乾杯の挨拶━━━いっちょお願いしますよ」
「いやぁ……ここは浩二にお願いしたいな」
 もうすぐ乾杯らしい。間もなく始まってしまうのだ。
「え、俺がぁ? そんなのやったこと無いってぇ」
「なんで慌てる必要なんかあるんですか」
「そうだよ。先輩として役目を果たしてやれよ?」
 何だか、腹の辺りにじりじりと緊張感が走り始めている。ちょうど、ジェットコースターの登り坂にいるような感じである。
「じゃあ一丁やってやるか、しょうがねぇなぁ……よいしょ」
 先輩が立ち上がり、体勢を改めるようにして僕の方を見る。随分と緊張しているような仕草に見えた。
 何故だか分からない。緊張しているのは僕も同じだ。
 どうせ、馬鹿みたいな宴会が始まるだけなのに。
「えっと、まず……遠野、入学本当におめでとう」
 周りの視線が一気に集まり、先輩は少し照れ臭そうな顔を浮かべながら言葉を紡いでいく。
 その妙な初々しさに思わず笑ってしまいそうになるのを抑えながら、僕はそれを見つめ返して━━━
 目を、みはった。
 ああ。
 そうだ、思い出した。
 僕の様子に気づくこともなく、先輩は続ける。
「部活は変わっちゃったけどさ、大学でもまた一緒になれたのは俺もとても嬉しいんだよ」
 僕は先輩を見上げている。時が止まったように、その顔に釘付けになる。
 周囲がぼやける。焦点は今、たった一箇所に集まっている。
 いや、ぼやけているのではない。重なっているのだ。
 目まぐるしく変わり果てた現実を前にしてもはや懐かしいとすら思えてしまうあの頃の日々が、その一コマの光景が、視界の中で先輩の顔を基準にぴたりと重なっているのである。
 ああ。
 やっぱり同じだ。
 そうだった、その顔だ。
 先輩のことを、好きになったきっかけは。
「今は、色々変わって戸惑ってると思う。でもウチの部はいい人ばっかりだし、皆で馴染めるように楽しいイベント色々やろうって話にもなってるんだ━━━あっいや、入部しなくても遠野さえよければそうしようってな」
 訥々とつとつと語りかける先輩の口調は、悲しいほど昔と変わらなかった。
 きっと、先輩の言ってることは心からのものなんだろう。
 今だって、言葉を選びながら喋っていることがよく分かる。
 でもその根元は━━━きっと優しさであり、誠意なのだ。
 抑えたまま固まっていた口元が、自然と緩む。きっと笑みに似た表情を浮かべているのであろう僕の顔を見て、先輩は安堵したように一呼吸置くと、締めくくりの言葉を一気に解き放った。
「とにかく、また一緒に楽しくやっていこうな。じゃあ……これからの大学生活に━━━」
 すいません、先輩。
 それだけじゃもう、僕はダメなんですよ。
「乾杯!!!」
「かんぱ~い!!!!!!」
 きらきらと照明の光を跳ね返しながら、差し出されたグラスは一斉に交わされた。
 かちゃん、かちゃん。
 硝子の鳴る音が虚しく響く僕の心を置き去りに、初春の宴が幕を開けた。

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