文車妖妃・七

 私は膨張を続けている。
 ひと時の悲しみが胸を裂こうとも、脳はただそれを整理し、解体する。
 つい先刻までの私の心に渦巻いていた激しい感情も、ここへ帰り着いた頃にはすっかり理性によって水平化され、鎮静していた。
 ただ、執着だけが、ここに残っている。

 つい一時間ほど前。終業式が終わった後の事である。
 高校最後の一学期を終えた私は、二年前の春と同じように夕方まで学校に居残っていた。特に理由も思い当たらない。曖昧な分析を施すとするならば、それは名残惜しさのためであったのではないかと思う。
 ただ想像の中の存在に宛てて手紙を書き続けるというだけの高校生活は、こうして字面に起こせば味気なく寂しいものだろう。だが私自身にとっては恐らく、人並みに懐かしさを伴って日々を思い返せる程度には、満ち足りたものだったのだ。
 特に夕刻の校舎は私にとっては思い出深いもので、それを茫然ぼんやりと眺められるのももう残り僅かな時間だけとなると───それなりには寂しかった。
 教室には意外に人が多く居た。彼らも皆、名残惜しいのだろう。
 もう不快な笑い声は聞こえない。だがやはり、人は少ない方が好きだ。 
 私は、ふらりと中庭に出た。
 ひぐらし油蝉あぶらぜみが、潜々さめざめと鳴いていた。
 石造りのベンチに座って、呆然ぼんやりと中心の花壇を眺めていた。夕陽の光に、花々は皆一様に赤味を帯びてぼやける。特段綺麗だとも思わないが、適当に眺めるには落ち着く景色だった。
 だがそこへ。
 花壇の向こう側のベンチに、人がふらりとやってきた。
 朧げな視界の焦点が、自然とそちらに合った。
 やや背の高い男子生徒である。あまり見覚えの無い風貌なので、発育を考えると恐らく二年だろうか。ベンチの傍に立つと、そのまま毛ほども動かなくなった。ちょうど彼の立っている側は校舎が陰になっており、一瞥したくらいでは表情がく見えない。
 奇妙だ。一体、何をしているのだろう。
 いぶかしんだ私は、さらにそちらへ目を凝らした。
 ちょうど影に入っていた首から上が、少しずつその輪郭を定める。
 身体は細いが、弱々しい風では無い。どちらかと言うと、余分な筋肉の無いしなやかな印象を受ける。やや面長で、目立つような髪型ではない。顔は整っている方に見えるがその目は糸のように細く、感情が掴みにくい。そのため、少し親しみが湧きにくい雰囲気を持っている。一口でその容姿を表すと───蜥蜴とかげのような男だった。
 ───目が細いのは、私も同じか。
 私は若干の同族嫌悪を覚えながら、自分の目を余計に細めた。
 この男は私の方には全く気づいていないらしく、顔が全く動かない。まるで顕微鏡を覗いているかのような機械的な心地で、彼のつぶさな表情が明確になっていく。
 くらぼやけたその表情は───薄く笑っていた。
 私は厭な気持ちになった。
 思い出したくもない、あの頃。
 渇いた空虚な私を嘲笑った、諂い顔の抽象画。
 その記憶を今更現実に引っ張り出したような、厭な面だった。 
 ───何がそんなに可笑おかしいんだ、あいつは。
 嘲笑っているのか、憐れんでいるのか。
 蜥蜴の男が浮かべている薄ら笑いは、私が居る側の校舎の、上階の方に向けられているようだった。
 あの鬼魅きみの悪い表情は、一体何に向けられているのだろう。ひょっとしたらあの微笑にやけづらの先には、私に近しい何かが───誰かが、居るかもしれない。
 俄然興味が湧いた私は、彼の目線を辿るように背後の校舎を見上げた。
 その時。
 ───ひゅう、と。
 風を切る、やや大きな音がして。
 何かが───いや
 何か、というには随分と大きな何かが、
 ちてきた。
 淡黄金ブロンドが、夕陽に煌々きらきらと照り。
 朱光の淡く差した細長い白が、眩しく尾を引き。
 花壇の色彩に、深紅を撒き散らし。
 私の眼前、十数歩先。
 中庭の石畳に、突き刺さった。

 ───ぐちゃり。

 夕景に彩られたその映像に遅れて、余りに不釣り合いな雑音が届いた。
 その音でようやく、私は何が起こったのかを理解した。
 これは人だ。
 いや。これは人であるばかりか─── 
 いや。違う、ちがう───
 いや。そんなこと、あっていいはずが───
「いや───」
 私は思わず声を漏らした。
 嘲笑へつらいがおの向こう。
 宙を舞い、命を墜としたその人は。
 
 水橋譲花。

 私に、想い人を与えてくれた人。
 私の空虚を、埋めてくれたひと。
 そうだ。
 やっぱり私はこのひとのことが。
 すきだったんだ。
 だって、もう声が出せない。
 怖くて、悲しくて、さけびたいのに。
 喉が震えて、何も出て来ない。
 足が竦んで、何も出来ない。
 頭が痺れて、何も聞こえない。
 心が脹れて、張り裂けてしまう。
 視界が揺れて、霞んで。溢れそうだ。
 なのに、見えてしまう。
 彼女の中身が、血肉の紅が、茜に溶けてぼやけていた。
 艶やかだった彼女の髪が、赤黒く汚れていた。
 可憐だった彼女の顔は、殆ど潰れていた。
 見たくない。目を逸らしたいのに。
 頭の中に居た恋人の姿も───そこに重なって。
 形が崩れて、輪郭を失って、赫く昏い虚無やみの中に溶けてゆく。
 駄目だ。
 置いていかないで。
 貴女まで逝ってしまったら。
 私は本当に空洞からっぽになってしまう。
 きっと、くしゃりと潰れてしまう。
 失われていく彼女の像を呼び止めようとした。
 名前の無い、心の中の彼女を。
 でももう、何でもいい。
 これからも傍に居てくれるのなら。
 私は、

「待って、譲花ちゃん」
 
 名前を呼んだ。
 その瞬間、空想と現実の境を曖昧にしていた私の意識は覚醒した。
 いつの間にか私は、ベンチから立ち上がっていた。
 足下に視線を落とすと───
 ころころ、と。
 真珠のようにきらりと光る、何かが。
 私の上履きにこつんと当たって、動きを止めた。
 親指程の大きさで、赤い紐のような肉片が絡みついた、白い珠。
 反動で、また微かに転がって。
 ぎょろり、と。
 橄欖石ペリドットのように煌めく瞳が、こちらを向いた。

 ───嗚呼ああ
 嬉しいよ。
 私を見捨てないでくれて、ありがとう。
 私の傍に残ってくれたんだね。 
 彼女の右眼が、うなずくように揺らめいた。
 
 辺りを見回す。もう蜥蜴の男は居なかった。
 少しずつ、騒がしくなってきている。
 ───逃げよう。
 大好きなこの子と一緒に。
 右眼だけになった彼女の姿を、誰かに見られる前に。
 私は眼球こいびとをそっと両手で包み込み、その場を足早に立ち去った。
 
 そして、現在に至る。
 今になって考える・・・と、正気の沙汰ではない。
 私の恋は終わった。
 これはただの遺骸の一部だ。
 なのに、どうして私は未だに。
 壜の中に入れた彼女の右眼を、見つめているのだろう。
 きっとそれは、執着なのだろう。
 私は、そう考えた・・・
 


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