文車妖妃・五

 手紙を外に持ち歩いたその日。
 私は夕方になって、ようやくあの子を見に行った。
 日が傾くまで、どうにも事を起こせなかった。何となくそれは、無粋な事であるように思えた。なるべくあの時と同じ状況が良い。夕陽の下で、もう一度彼女の麗しい顔を垣間見たかったのである。
 あの時ほどでは無いにしても、また夕焼けが赤く教室を覆っていた。
 私はつい先週と同じように、素知らぬ顔を装って一年B組に這入った。
 彼女は、居なかった。 
 私は、少し動揺した。
 勿論そういう可能性も考えなかった訳では無い。だが実際そうなった場合にどうしようか、などという所までは及ばなかった。
 彼女の居た机は綺麗に片付いている。どう見ても一時的な不在には思えない。既に下校しているかのような気配である。もし未だ校内に居たとして、この教室に彼女が帰ってくるとは考えにくい。一番確認が簡単なのは下駄箱を見る事だが、名前が分からない以上それはできない。そもそも下駄箱の場所が分かるのなら、そこへこの手紙をとうに隠している。
 結局の所、私は明らかに諦めるべき状況にあったのだ。内心、ここに居残っていても彼女に会える事はまず無かろうと踏んでいた。
 だが、私は帰らなかった。
 帰れなかった。
 呆然と誰も居ない教室に立つ足を、後ろへ返す事ができなかった。
 ほんの僅かに残った可能性が、私を踏みとどまらせていた。
 私には彼女の下校を確かめる術が無い。
 もう少し待てば、あの子はまた現れるのではないか。
 どんなに冷静な部分が叫んでも、その可能性が皆無ゼロになる訳ではない。
 私の脳と心は、愚かにもいさかいを始めた。
 仮に現れたところで、彼女はドアをくぐるのだ。まず目が合ってしまうだろう。だが私の心はそんな当たり前の事からすらも逃避した。このまま立っていれば、あの窓際の席のあたりから陽炎のようにふわりとあの子が像を結ぶはずだ。そんな莫迦みたいな妄想に漠然と浸かり続けていた。
 そうしてそのまま立ち尽くしていた私は、下校を催促する校内放送を聞いたことでようやく我に返った。
 彼女は遂に現れなかった。
 それからも───それは同じであった。
 次の日も、その次の日も、私は毎日夕方まで何をするでもなく学校に居残り、茜色の教室で彼女に再会できる日を待った。
 だがやはり、現れなかった。
 きっともうあの子は新しい居場所を見つけたのだろう。私と違って。
 だから、もう会えないのだろう。そう考えた。
 それでも。
 私の頭はやはり、残された可能性を否定しきれなかった。
 私の心はそれをいい事に、頑なに妄想を振りかざした。
 次の週も、その次の週も、私はあの子に手紙を書いた。
 論理や構成は着実に失われ、分量だけが増えていった。
 いつかきっとまた会えるから。
 いつかきっと彼女に想いを伝えるから。
 否定に足る憑拠が無いばかりに、流れ出る先を失って。
 心に満ち満ちた何かは、ただ膨らみ続けた。

 ───いや
 最早何を以てしても、膨脹は止まらなかったのである。
 その年の夏休み。
 偶々道を歩いていた折。
 私は確かに、見たのだ。
 臙脂色えんじいろの空に宵の明星がぽつりと浮かんでいた、誰彼時たそがれどきに。
 あかい陽射しを受けて、煌めく金色こんじきの髪を見た。
 その主はやはり彼女だった。
 予想外の再会に思わず、脇に隠れようとした。
 あまりの唐突さに、心が一気に張り詰めたのだ。
 まさか本当に───夕陽の下でまた会えるなんて。
 だがその瞬間。髪の下の───顔を見て、私は硬直した。
 彼女は笑っていた。
 へらへらとしたへつらい顔とは別種の、柔らかな無音の微笑。
 その笑みの先に。
 二人の男が居た。
 男達も、笑っていた。
 油蝉あぶらぜみひぐらしの声だけが、響いている。
 三人はしずかに笑みを向け合い、満ち足りて。
 茜空の下に、調和を持った空気を創り出し。
 そこに私の立ち入る隙など、何処にも無くて。

 土左衛門どざえもんのように腐りふくらんだ心に。
 蝉のき声だけがこだました。

 私はいとぐちの切れた絡繰人形マリオネットのように体を引き摺り、鈍々のろのろとした足取りでその場を立ち去った。
 そうして家に帰り着いた後。
 今のようにこの文机に突っ臥し。
 両目と天板の木目の間に浮かぶ、くらい虚空を見つめて。
 泣いた。
 ───もう、諦めよう。
 私の頭はそう呟き、いて。
 なのに。
 ───嫌だ。認めない。
 私の心は、それを掻き消すようにいて。
 脳と心は反目し、肉体からだは統率を失い。
 喉が震え、声も上げられずに。
 私はただ涙を零した。
 その夜も、手紙を書いた。
 それからも、書き続けた。
 もう、誰に向けたものなのかも判らぬまま。
 胸のうちにあったものが恋であったなら、それはとうにしぼんで消えゆくはずだっただろう。しかし心は脳を拒絶し、ただふさ浮腫ふくれ続けるだけの塊になった。何が湧き出ているのかも、もう判らない。私にできるのは最早、そこから染み出るうみを便箋に吸わせる事だけであった。
 腐臭を抱いた手紙は幾重に折り重なり。
 宛てがわれる先もなく、この抽匣ひきだしの中に満ち満ちて。
 お守りとして始まったそれは、いつしか呪物へと変じていた。

 そうだ。
 やはりこれは恋などではなく、執着なのだ。

 窓の外を眺める。やはり空はあかかった。
 だがあの日に比べ、随分と曇っている。
 何より湿々じめじめとした気が、一層の苛立ちを誘う。
 身体を起こそうとすると、べたりと机にへばりついた腕を引き剥がさねばならない。何とも不愉快な感触である。
 夕闇は、やはり少しずつ忍び寄って来ている。
 私は、思い出に耽っている。
 抽匣の中に封じ込めた、く解らない感情。それをひもとく前に、今一度の反芻をしたくて。
 ───そうでなければ。
 おかしくなってしまいそうだったから。
 だってあの子───水橋みずはし譲花じょうかは私の目の前で、

 今日、ついさっき。
 死んだのだから。

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