月すら遠く - 1(前編)

 聞くところによると、大学生とは「自由な身分」であるらしい。
 またこうも言うそうだ。「人生の夏休み」と。
 それは確かに一理ある。僕はまだその自由な身分とやらになって間もないが、そう言われるだけの根拠は容易に並べ立てることができる。
 融通の利く時間割に、要領良く行けばあっさり満たせそうな卒業要件。
 潤沢に余る自由時間に、闖入者の居ない一人部屋。
 バリエーション豊かで、かつ目的意識を必要としないサークル。
 枚挙にいとまがない。あまりに高校と違い過ぎる。自分で決められることが、僕が求める以上に多過ぎるのだ。
 そもそも自由というものを皆一様に羨ましがるが、僕にはどうにもそれがそこまで良いものには思えない。そんなもの、この小さな己の身には到底扱いきれない代物だ。身に余るような自由の中であたふたと惑うくらいならば、何かに依って、縛られて生きていた方がよっぽど幸せに生きられるのではないか。そうでなければ、社会秩序などというものが現在まで存続しているのはおかしいだろう。
 少し前の僕は、そういう意味で不自由だったと言える。だがそれが不幸であったとは微塵も思わない。間違いなく今この瞬間よりも、あの頃の方が遥かに僕は幸せだった。
 そう───
 僕の高校生活はずっと、一人の先輩を中心に回っていたようなものだった。
 先輩がいたから、僕は水泳部を三年続けて。
 先輩がいたから、僕は男が好きになって。
 先輩がいたから、僕は頑張って勉強して。
 この大学にまで入ったのだ。
 僕は、眩しく光る憧れの先輩の引力に縛られ、決められた軌道の上をくるくると回るだけの惑星だった。それでもその日々は、それはそれは幸福に巡ったものである。

 だがそれは───高校卒業と同時に終わった。
 僕は念願の志望大学に合格し、晴れてあの先輩のいるキャンパスへと足を踏み入れたはずだった。
 なのに、そこにいた彼は。
 僕を待ってくれてなどいなかったのだ。
 家族ごと大学周辺に引っ越した先輩は、あんなに懸命に取り組んでいた水泳をぱったりと辞め。
 なんと空手部に入り、先輩後輩、果ては顧問の教授まで巻き込んだ何とも賑やかなコミュニティの中心となっていた。
 挙句果て、腐れ縁も同然だったはずの女子の幼馴染とこの一年で急接近し、お熱い恋仲にまで発展していたのだから、もう僕の付け入る隙は何処にもありはしない。
 考えれば当たり前の事かもしれない。僕は先輩に告白などしていない。なら僕はただの後輩その一で、彼の人生の中の取替え可能パーツの一つでしか無いではないか。
 しかしただでさえ内気気味だった僕に、どうして告白などという大胆な真似ができただろうか。いや、むしろだからこそ、その勇気を絞り出すための制限時間に大学の四年間を上乗せしようとしたのだ。
 その結果がこれだ。
 入学式前日、先輩から彼らを紹介された僕は、目の前が真っ暗になった。
 本当に、視界が数秒間寸断されたのだ。ショックのあまりに脳が破壊を起こし、視神経が接続先を失ったのだろう。我ながら、その後よくぞ平静を装えたものだ。
 ろくに機能しない思考回路に、空手部連中の顔が半ばのっぺらぼうのようになって流れ込んで来る。ただ、まるで旧来の友を紹介するように彼らの話をする先輩のにこやかな表情だけが、明瞭に網膜に映った。
 紹介が終わるとすぐに僕は先輩一家の新居に連行された。なんでも、歓迎パーティーを準備してあるという話だった。先輩は部員の仲間二人に案内役を頼み込むと、僕たちとは逆の方向に足早に去って行ってしまった。彼女を迎えに行くとか、何とか言っていた。
 確かにあの人とは僕も顔見知りだから、場違いという訳ではない。僕の気持ちを知らないのならば、それが如何に惨い仕打ちであるかなど、察しもつかぬだろう。だが今にして思うと───それにしたって、余りにパーティーの主人公をぞんざいに扱い過ぎではないか。やはり、それだけ彼女にぞっこんだったという事なのだろう。僕に課せられたタイムリミットは結局、どう足掻こうと先輩が高校を出た瞬間にきっぱりと終わっていたのである。
 ここまで来てしまったならいっそ素直に楽しめたら良かったのだが、この時の僕は生憎そんな気分ではなかった。とにかく、焼き切れた脳の回路を整理する時間が欲しかったのである。だというのに、もはや有無を言わさず、という風な勢いで僕は先輩の家族や顧問の待つ大きな一軒家まで引きずられて行った。
 悲しむ暇すら、満足に与えられないというのか。
 道中はただただ恐ろしかった。僕の右側に、頭も顔もツルツルの禿げたのっぺらぼうが付き、惚けたような太い声で訳の分からない事を喋りながら僕の右腕を引っ張って行く。左手には髪の生えた顔無しが、これまた何もない顔をこちらへチラチラと傾けながらついてくる。
 もちろん二人とも、ちゃんとした顔があるはずなのだろう。だがもう僕には彼らが人語の通じぬ化け物にしか見えておらず、ただ髪があるか無いかだけでしか二人を区別する術を持たなかった。この時の最悪な気分のために、彼らの印象はパーティーの間も全く良化することは無かった。
 のっぺらぼうの話に生返事を返しながら朦朧と歩いていくこと、およそ十分。髪がある方の片割れが一つの家を指差した。
「……すっごい大きい」
 僕は思わず声を漏らした。
 本当に、大きい。
 敷地も周りと同じくらいであるのに、一軒だけ三階建てではないか。
 だが悲しいことに、やはりそれだけでは済まなかったのである。
 頭上を仰いでひとしきり驚いた後、視線を地上に戻した僕は絶句した。
 新居の敷地の前には、馬鹿みたいに大仰な装飾を施された街宣車が停められていた。筆文字で「神風」だの「斬奸」だの、物騒極まりない文言ばかり書かれている。僕は思わず逃げ出したくなった。こんな車の持ち主がここに居ると言うなら、まず話の通じるような思想の持ち主ではあるまい。今からそんな奴と会わなければならないのか。しかも下手をすればこの家の住人も───いや、ここに今から入ろうとしている僕すらも───そういう思想の人間だと思われかねないではないか。
 しかし物の怪どもは一向に意に介さない。坊主の方がこの車を見てただ一言、
「おっ、先生ももう来てるみたいだゾ~」
 と言い放ったのみだった。
 何の冗談なのだろう。
 まさかこの極右かぶれの街宣車がその空手部顧問の所有物だとでも言うのだろうか。だとすれば最悪、その先生は僕を歓迎するために、この車で街中駆け回って買い出しをしてきたという可能性だって十分考えられる。それなら僕はもう既に「同胞」ではないか。この坊主頭は呑気な口調と間抜けな語尾で、そんな悪夢のような事を抜かしているのだ。
 僕の脳味噌は状況の処理を諦めた。ただ従順に背中を押されるまま、もはや悪夢の深淵のようにすら映るこの田所家の玄関をくぐる事しかできないのだった。
「お邪魔しますゾ!」
「お邪魔します……」
 八割方上の空という状態で空手入道に先導され、玄関に通される。その瞬間、突如として破裂音が耳を貫いた。
「ようこそ遠野く~ん!!!」
 硬直したすっからかんの頭に賑やかな女性の声と金銀のテープが降り掛かり、ようやく僕は何が起こったのかを理解した。
 何の事は無い、サプライズのクラッカーだ。もはやこの時の僕はそんな事にすらすぐに気づけないのだ。
「合格おめでとう!  お母さん嬉しいわ~!」
「あ、ありがとうございます……」
 玄関で待っていたのは案の定一家の母親、栞奈さんだった。この人は昔から僕を気に入ってくれていて、時折こうしてさらっと僕の母親面をしてくる。
 僕の本物の母親は、ここまでうるさくはない。母は栞奈さんの事を「いつも元気で羨ましい」と言っていたが、自分の母親がここまで元気だと流石に僕は少し気が滅入るかもしれない。でも先輩の家の母親ならば、このくらいうるさくなければ務まらないだろう。
 何と言っても、この一家は先輩含め騒がしい人間ばかりなのだ。
「おめでとナァス!」
 後ろの坊主頭とも違うよく分からない語尾で、先輩の妹もお祝いの言葉を掛けてきた。名前は確か、やみんちゃんだ。未だに、この子がいつも頭につけている鬼の角のようなアクセサリーの正体を知ることができていない。何となく、聞くのが怖い。
「一年空いただけでも何か懐かしいわね」
「久しぶりねトカゲ野郎!」
 懐かしい顔が一気に現れる。麻痺していた脳が少しずつ動き始めた。
 栞奈さんの連れ子三姉妹の下二人だ。母親に似ず落ち着いているのが先輩と同い歳のれうさん、口が悪いのが高校生の紅海月みづきちゃん。一番上の沙奈さんは社会人だから、まだ帰ってきていないのだろう。
 チェーンの錆びた自転車を漕ぎ出すように、先輩の大所帯かつ複雑な家族構成が少しずつ思い出されてゆく。
 元々先輩の家は、やや年の離れた兄と両親の四人家族だったのだが、母が病気で亡くなり父が再婚した事で一気に所帯が膨らんだ。この再婚相手こそが、当時三児のシングルマザーとなっていた栞奈さんである。やみんちゃんは、再婚した栞奈さんと父親との間に生まれた一番下の妹なのだ。一番下と言ってもこの再婚自体が十五年近く前の事なので、彼女さえとっくに中学校まで進んでいる。栞奈さんはもう、ほとんど本当の母親も同然の地位を確立していた。
 だがただ一人、一番上の先輩のお兄さんとだけは距離ができたままらしい。これは仕方ないことだろう。彼は現在確か三十路に差し掛かっているくらいの年齢だから、再婚は思春期真っ只中の事だ。言ってみれば多感な時期に母を亡くし、悲しみの癒えぬうちにあれよあれよと継母に家族を塗り替えられてしまったようなものなのだから、彼の孤独は察せられて余りある。今この状況にあってこうして思い出してみると、僕は彼に対してますます強い共感を覚えた。彼───浩一さんはやはり、ここには顔を出していないのだろうか。もし会えるなら、一度話してみたいものだ。
「おうおうお前らやっと来たか」
「オッス先生!」
 やはり一般的な家庭に比べ一際大きなリビングルームに通されると、キッチンの方からこれまた一際大きな男が姿を現した。身長一八〇センチ後半はありそうな、まるで隙の無い精悍な体つきをした巨漢であった。先輩の父親がこんな逞しい体躯を持っていた記憶は無い。恐らくこの人が空手部の顧問で───かつあの悪趣味な車の所有者なのだろう。
「おう、お前か。田所の後輩だったってのは」
 見るからに腕っ節の強そうなこの大男の見下ろすような視線が、僕に注がれた。無骨な野太い声が威圧的に響き、変な返しをしようものなら張り倒されるのではないかという根拠の無い怯えを誘う。
「あ……どうも、よろしくお願いします……」
 すっかり小動物のように縮みあがった僕は、少しも気の利いた事を言えなかったのだった。
 こんな理不尽な事があるだろうか。
 あんな傍迷惑な車を乗り回しているのは、こんな「勇猛」という言葉を体現したような偉丈夫なのだ。これでは誰も文句が言えまい。どう見ても本物の右翼だ。何か言えば文字通り「斬奸」されてしまうかもしれない。だが空手部連中の反応を見るにあれは───本当に単なる趣味なのだろう。
 考えているだけで、せっかくまともに動き始めた頭が再び悲鳴を上げそうになる。滅茶苦茶だ。外に置いてあるあの真っ黒な街宣車と、今目の前にいる大男の出で立ちの印象に───常識的な整合性を見いだせない。やはり先輩の居るこの空手部という集団はどうも、存在自体が僕の調子を破壊する性質を持っているらしい。
「おう、よろしくな!  今日は奮発したからな、腹いっぱい食ってけよ!!」
「おっ……いいゾ~これ!」
「遠野くん、秋吉先生の選んでくる食材は絶対外れませんよ!  こういうお祝いの時くらいしか食べられませんから好きなだけ食べましょう!!  僕らは……多少は……我慢しますから」
 顔の整った青年が腹の虫を鳴らしながらニコニコと熱弁してくる。
 一瞬、誰か分からなかった。ただ、髪型に既視感があった。
 そうか、誰かと思えば。
 さっきからずっとついてきていた、髪がある方ののっぺらぼうの正体である。
 ここでようやく、彼らの顔を認識できるくらいには自分の脳の認知機能が復旧した事に気付いた。そうだ、こいつはこんな顔なのか。確か彼は田所先輩の後輩───つまり僕と同期のはずだ。先程は気にする余裕も無かったが、どうして僕と同じ新入生であるこのイケメンが「いつものメンバー」面をしてここに居るのだろう。田所先輩が紹介の折に何か事情を話してくれていたような気もするが、全く耳に入っていなかったので皆目見当がつかない。こんな様の僕でも分かるのはただ一つ───田所先輩の後輩その一は今、僕ではなく彼なのだろう。
「おい木村、そんな自信なさそうに言うなよ。俺らは前食べたんだし、本当にちゃんと我慢するんだゾ?」
「は、はい……もちろんです!」
 そうか、この優男は木村というのか。先輩がそう言っていたような気もするが、その辺の記憶は水中から話を聞いていたかのように曖昧であり、ここで呼ばれるまで全く思い出せもしなかった。
 ではこちらの、のっぺらぼうだか海坊主だかよく分からなかった先輩らしき男の方は、何と言うのだったか。
「三浦くん、瑠美亜るみあちゃんは今日は来ないのかしら?」
「おっ……あの子は学校の友達の家にお泊まりするらしいゾ~。楓姉さんも居るから安心ですゾ」
「あらそうなの。そっちも楽しそうで良いわねぇ~」
 ちょうど思い出そうとしている所に、栞奈さんが折り良く名前を呼んでくれた。そうだ、このふざけた語尾の蛸坊主は三浦というのだった。確か先輩が敬語を使っていた気がするから、先輩の先輩……いわば「大先輩」といった所か。どうやら上と下に姉妹が居るらしいが、もう僕は彼女達の人となりを想像したりはしない。どうせそいつらもマトモではないのだろう。そうやってこの空手部の一味に会う度に一々思考を麻痺させられたのでは、たまったものではない。
 ただ名前を覚えるだけで今は十分だ。
 そうだ。

 空手部顧問の秋吉准教授。
 大先輩の三浦。
 同学年の木村。

 新たに記憶に刻んでおくべき名前は、これだけだ。他の情報は何ひとつとして必要ない。
 それならばそう難しい事ではない。
 僕は静かに息をつき、心を研ぎ澄ました。
 確かに僕は、先輩に不可欠な存在では無かったろう。
 それでも。
 先輩はきっと、先輩なりに僕の事を考えてくれているはずだ。もちろん、特別扱いという訳ではないにしても。
 思えばそういう人だったじゃないか。
 先輩は周りの人間皆を尊重した。
 それが今の彼らになっただけに過ぎない。
 先輩の切り分けたパンと、先輩の注ぐワインを、皆で揃って食べる。そんな日々が続くのだって、別にいいじゃないか。
 そう思って初めて、この場にいる人間の顔全てがくっきりと輪郭を定めた。
 これでいい。
 ここからだって、また始められる。
 先輩を中心にくるくると巡る青春を。

 場がひとまず落ち着きを見せたところで、僕はようやく頭と心の接続を復旧させることができた。 

 その瞬間。

 インターホンが鳴った。
 玄関の方を向く。
 すぐにドアが開く音がした。
 何の断りもなく入ってくる訪問者。
 それが許されるのは、もちろん───

 僕は玄関へ駆けるように滑り入った。 
 よし、僕以外誰も待っていない。
 ───先輩。
 また、あなたのいる日常が欲しくて。
 僕はここに来ましたよ。
 だからちゃんと、真っ先にお迎えします。

「おかえり───」

「……ああ、遠野君か。へへ、久しぶりだね……ただいま」
「あ……」
「あらおかえりなさい、浩さ~ん♡」
  ───馬鹿か、僕は。
 とんだ先走りだ。
 この時間帯なら、この人が先に帰ってきたって全然おかしくないじゃないか。
 先輩の父親、田所浩さん。
 七児ななじの父にして、同性相手のセクハラ常習犯。
 相変わらず何度見ても顔を覚えられない人。
 僕は顔から火が出たようになって、その場に立ち尽くしてしまった。
 暑い。外に出て行きたい。
 肌が痒い。ひび割れそうだ。
 いっそここに外面カワだけ残して、中身の方は何処かに飛んで行ってしまえないものだろうか。
 先程とは種の違う、羞恥ゆえの現実逃避に僕は邁進した。
 聴覚はまた自らの機能を遮断し、海底に沈んだように耳が閉塞される。
 ───だが、それ故に。

 浅はかな自己嫌悪に夢中になっていた僕は、二度目のインターホンが聞こえなかった。
 微かに聞こえてきたドアの音がカチャリと響き、ようやく僕の意識が浮上しようとした時には。 

「入って、どうぞ」
「よー遠野くん!  遊びに来たぜ!」

 僕の心は、より昏い海の底に沈んでいた。


 

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