文車妖妃・三

 私の中の空虚は、程なくして埋まった。
 ある土曜日のことである。

 平日はいつもすぐに学校を出る私だが、土曜だけは夕方まで帰宅しない。
 土曜は午前で放課となるので、昼食を食べに帰宅する者がほとんどだ。
 外には人が多いから、あまり帰りたいという気持ちが湧かない。逆に校内は人が少なくなるので、気に入っている。私にとって休日とはもはや外界の者達と顔を合わせずに済む時間───という意味の言葉になっていた。
 だから土曜は購買の惣菜パンで適当に昼を済ませ、夕方まで居座る。
 空いた教室を転々として。
 誰とも知らぬ席に突っ伏したり。
 黒板に落書きをしたり。
 外の体育部員や雲の動きを眺めたり。
 そうやって日曜前の、穏やかな孤独の時間を楽しむ。この時間だけは、自由に放課後の校内を歩く事ができた。
 そんな日の夕方。
 着色した薄幕フィルムを窓一面に貼りつけたように、真紅まっかな陽射しが校舎内総ての教室を覆っていた。
 私はやはり、空き教室を探して廊下を漂々ふらふらとしていた。
 窓の脇に巻かれた緞帳カーテンさえも染め上げるほどの、それはそれは強い西陽にしびが射していた。私はその色に魅入られて───あの緋染めの薄衣に独りくるまって、窓の向こうに広がった血のような夕焼けでも眺めていようか───そんな発想を抱いたのを覚えている。
 少し酔った考えだと、自覚はあった。
 でも、独りならば。
 あの厭な諂い顔さえ無ければ。
 何だって、できる気がした。
 脳髄まで茜に染まり酩酊した私は、最もあかい部屋に足を踏み入れた。
 一年B組。
 私のクラスの、隣の教室であった。

 最初、私はそこに人が居るのに全く気付かなかった。
 隠れていた訳でも、死角に居た訳でも無いのに。
 まるで存在自体が陽炎かげろうの化身であったかのように。
 居ないものと考えていたのではなく、居て当たり前のように思えたからこそ───私は彼女を見過ごしたのである。
 彼女もまた、入口で立ち竦む私に気付いていなかった。
 それどころかこの見事な夕景にすら、目もくれなかった。
 端から誰も───何もらぬかのように、ただじっ袖珍しゅうちん本をめくっている。
 ───誰だ。
 同じ学年であるのは間違いなかったが、名前を全く知らない。人と関わらぬようになって、教師はおろか同級生の名前も忘れてしまった。その上、入学式の時に顔を見た記憶も無い。
 いや───
 そもそも、果たしてあのような人間がこの学校に居ただろうか。
 彼女の顔からは、あの愛想笑いの面が浮かび上がって来ないのだ。
 ただ両手の間の小さな書物のみを焦点に据え、清廉とすら思えるほどの無表情を貫いている。
 この人は一体───何なのだ。
 陽は緩慢ゆったりかげり始めている。
 私は、窓際の席に座る彼女を食い入るように見つめていた。
 その輪郭かたち黄昏こうこんに溶けて蜃気楼のように朦然ぼんやりとしているのに、その容貌すがた赤光しゃっこうを浴びて陰影を劃然くっきりと帯びている。
 最早ここに居る目的も理由も、忘れ去っていた。
 意識を惹かれるあまり、身動みじろぎ一つできなかったほどだ。
 これ程まで釘付けになっているというのに、彼女は私に見向きもしない。
 名も知らぬ彼女の、ほんの僅かな挙動にさえ───私の心はこんなにも激しくふるえているというのに。
 肩に掛かった淡黄金ブロンドの短髪が、しずかに揺れるたび。
 ページを追う碧緑みどりいろの瞳が、ほのかに綺羅きらめくたび。
 真一文字に結ばれた薄い唇が、かすかに緩むたび。
 どくり。
 どくり。
 どくり。
 どくり。
 ───嗚呼ああ
 これだ。
 これが私の、思っていた通りの青春なんだ。
 私は、遂に思い至った。
 そうだ。
 夕焼けなんかを見に来たんじゃない。
 きっと、この人に焦がれるために───私は。
 憂き者共をいとうて、今日この瞬間まで過ごしてきたんだ。

 そうして、心に空いた風穴の奥底から。
 沸沸ふつふつと出づる何かが、膨脹を始めた。

 窓際の彼女を見る私の身の毛は逆立ち、心の臓は跳躍とびはねている。
 病と言えば、病かもしれない。
 顔が熱い。足がふらつく。
 視界もあかくらく、覚束無い。
 いや。やはり病と言うには、あまりに心地良い。
 恐怖と言えば、恐怖かもしれない。
 渦巻く感情は今、誰にも見られたくない。
 もし誰かに───彼女に知られたらと思うと。
 いや。恐怖と言うには、あまりに甘くくすぐったい。
 うろを満たすばかりか、溢れ出んとするその何かを。私は───
 恋だ。
 そう断じた。
 そうだ。
 これが恋でなくて、何だと言うのだ。
 そう思い到った瞬間。
 ぱたり、と音がした。
 彼女が、本を閉じた。
 まずい。気付かれてしまう。
 胸の中は満ち満ちて、今にも鉢切れんとしている。
 今あの子に見られたら───きっと私は破裂してしまう。
 逃げなきゃ。
 彼女の橄欖石ペリドットのようなあの目が、こっちを向く前に。
 私は緒の切れた風船のように床を蹴り、足早にその場を立ち去った。
 そうして家に帰り着いた後。
 今と同じようにこの文机に突っ臥し。
 組んだ両腕に顔を埋めて。
 叫んだ。
 さけんで、さけんで。
 両腕を寄せて、胸を強く抱き締めた。
 ───嗚呼ああ
 私は恋をしている。
 私はたされている。
 ひたすらに、歓喜に悶えた。
 夜が更けても、その思いは醒めなかった。


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