大童・二

 ───濁っている。
 遠野は厭な顔をして、足元を見つめた。
 轟轟と、水が流れている。
 泥を巻き込み、土気色に汚れ、底はおろか水面みなもすら見通せない。
 ───これでは駄目だ。
 共感には程遠い。
 濁流に乗って流れ去ってゆく漂流物を眺めながら、遠野は溜息を吐いた。
 何がいけなかったのか。
 やはり安直であったのであろうか。
 ───だがどうしても、共感したかった。
 常人の論理では到底理解も及ばぬ、人道を外れた行いを働く者の感情を、理解したかった。それが困難であればある程、尚更理解したいという気持ちは増した。その思いに従った結果がこれである。
 先日、新聞に或る女が載った。
 一児の母親だった。生まれてまだ半年も経たぬ赤ん坊を夫と共に育てていたという。わざわざ記事にするようなものでもない、ごく平凡な光景である。だが、それはつい先週までの話だ。彼女は自ら産んだはずのその赤子を───絞め殺した。新聞に掲載されたのは、その事件についての事であった。
 顔も知れぬこの女への共感に、遠野は固執した。彼は常人と同等の倫理観を持ち合わせていたが、それ故にそこから逸脱した者への興味は人一倍強くなった。
 遠野は海を目指している。紺碧の声音を夢見ている。
 彼らへの共感に至る事はもはや、使命である。
 熟慮の末───遠野は彼女の行動を模倣することにした。それ以外の方法をあれこれと考えたが、結局妙案は浮かばなかった。彼は自らの使命に、ただ忠実であるしか無かった。
 そして遠野は初めての恋人を───大雨で増水した川の中に沈めた。
 だが、そこまでしても。
 ───濁っていたのである。

 恋人だったものが、黄土色の水面から突き出た白い腕が、流されてゆく。
 それをただ茫洋ぼんやりと見つめながら、遠野は砂を噛んだような顔で先刻の己の行動を反芻していた。
 事を起こす前。遠野は初め、想像をした。
 腹を痛めて産んだ赤子を殺す、母親の状況に思いを馳せる。
 まずは不安と孤独───拠所よんどころなく、漠然と心細い。夫も決して頼りになる訳ではない。
 続いて後悔と罪悪感───もう少し心の準備をしてから産むべきだったのではあるまいか。いや、駄目だ。それはこの子の生を否定するのに等しい。そんな事を考えるのは許されない。
 磨り減る神経。止まぬ子の声。
 ───ああ、煩瑣うるさい。
 お願いだから静かにして欲しい。私は貴方の為にこんなに悩んでいるのだから、頭の整理くらい落ち着いてさせてくれてもいいじゃないか。
 それでも、き声は止まらない。
 そうして最後に───混濁の中から殺意が顔を出す。
 黙れと言っても聞かぬなら、こう・・するしかない。こう・・しないと私はこの子の事をゆっくり考えてやる時間も無いから。いや───こう・・すればもう、そんな風に頭を痛める事も無いのか。
 そうだ。
 言って聞かぬというのなら、これは人ではない。私の子供なんかじゃない。ならばこのまま、この腕の力を強めても良いのではないか。
 そう思った彼女は遂に我が子を───
 と。およそこんな感じだろうか。
 遠野はまぶたを開き、黙想を終えた。
 ただ殺したかったから殺した、というのは少し考え難い。彼女は罪をすぐに認めたのだ。きっと事を終えた後、強く己を呪ったのではないか。今頃拘置所に居るであろう、名も忘れたその女の境遇に、遠野はひとしきり思いを馳せた。
 ───可哀想に。
 心からそう思えた。
 僕の歌は、彼女の心をも包み込めるものでありたい。その為に、できる限り事をせねばなるまい。
 潮が満ちるように、青色の使命感が心に湧き上がってゆく。
 斯くして遠野は、顔も判らぬ他人の罪に寄り添うために、良く見知った恋人を殺すという罪を犯す決意に至った。
 彼は決して、倫理観や道徳心が欠如している訳ではない。ただそれを置いても為さねばならぬ事があっただけである。人として真っ先に優先すべきのりよりも、さらに優先すべき事項を心中に抱えていた。それが遠野長閑という人間である。
 然る後、遠野はこれから殺す者の事を思った。
 遠野の初めての交際相手は、銀髪のショートヘアが特徴的に映る同い歳の小柄な少女であった。長身の遠野はいつも見下ろすような形で彼女を見ることになるため、その銀色の髪は一層際立つ。その上、内気な彼女は二人で居る時ですら俯き気味な姿勢をとる事が多かった。その結果、付き合いを始めて二ヶ月が経ったにもかかわらず、遠野は未だに彼女の顔を鮮明に思い描くことができないままであった。
 銀髪の、恥ずかしがり屋な女の子。
 遠野の中の彼女のイメージはこの二ヶ月間、そこから毛ほども動いていない。彼女と永遠に別れねばならぬと考えるこの瞬間さえも、端々に現れる仕草や、笑顔に困り顔といった表情すら思い浮かばなかった。ただ陽や灯りに照らされて白銀の艶を放つその髪だけが脳裏に浮上しては、微風そよかぜなびき、揺揺ゆらゆらきらめくのである。
 嫌いな訳では無かった───と、思う。
 元々は、恋愛感情というものを知るために交際を始めただけに過ぎなかった。実際一緒に居て、恋人との交際がこんなに起伏も何も無いものなのか、とは拍子抜けもした。だとしても彼女と過ごした時間は、決して無味乾燥としたものではなかった。
 いや───味というより、温度だ。
 薄朦朧うすぼんやりとした日向の下で、柔らかな陽射しに当たっているような───ほんのりと温かい時間が流れていた気がする。そんな風にして、ただ言葉も交わさずに公園のベンチに二人座っていた記憶がある。そう、その時も隣に居る彼女の銀髪がきらきらとしていて───
 そうだ。やっぱり悪くなかった。
 振り返れば薄味で平凡ではあったけれど、小さく光るような温かい思い出となって、遠野の胸に残っている。
 きっとこれからもこんな事さえしなければ、もうしばらくはそうやって二人で過ごせるのだろう。どちらかが、この関係に飽きるまでは。彼女と居るのが厭になった訳では断じてないのだ。嫌気が差していなかったのなら、逆に殺そうなどとは思わない。それどころか、手にかける存在が尊い者であればあるほどあの新聞の母親と状況が重なる訳なのだから、彼女を殺す事は寧ろ目的に沿う行いであろう。
 大事なものだからこそ、壊さねばならない。
 中々に応える話である。
 だが、それでも使命は使命なのだ。
 これから自分は、彼女と彼女の未来を摘み取る。自分の未来からも、温もりある道筋が失われる。それと引き換えに、深々と刻まれるであろう罪と孤独を得て、理を外れた者の内面に触れることができるのだ。
 そう。
 遠野は自らの恋人を殺し、後悔と絶望を味わう───
 はず。
 だったのだ。
 そのはずだったのに。
 それは余りにも濁っていた。
 確かに計画自体、それほど綿密に練られたものではなかった。
 豪雨の日に彼女を呼び、氾濫した川を見に行こうと誘う。人気の少ない川近くの物陰で、彼女の首を絞める。数十センチほどの長さの縄を隠し持ち、それで後ろから縛り上げるだけである。後は彼女の死体を増水した水路に投げ込めば終わりだ。
 色々と穴のある計画だとは思った。
 目撃者が出ないとも限らないし、彼女が誘いに乗らなければそこで終わりだ。何より死体の首に縄の跡が残れば怪しまれる。発見が遅れている間に腐敗が進めばその心配は無さそうだが、そもそもすぐに見つかってしまう可能性は十分にある。親が居る訳だから、捜索願はすぐにも出るだろう。
 しかしそこは問題ではなかった。
 もっとリスクの少ない方法はあると思う。だがそれでは意味が無いのだ。あくまで目的は、殺す事ではなく共感する事なのだから。
 寧ろその事を考えれば、本来は計画を練るという事自体が破綻である。現に張本人の方は、すぐに犯行が露見して逮捕されている。そこに計画性など欠片も無かったはずだ。だからどうしても自らの手で絞め殺さねばならないし、捕まる危険も当然背負わねばならない。
 事を起こす前にアクシデントがあれば、計画自体を見合わせるだけの話である。つまり本当に心配すべきは、彼女の首に縄をかけたその瞬間の事だ。
 一度行動を起こしたのならば───確実に殺さねばならないのである。
 彼女を大切に思っていたのは間違いないのだから、きっと予想外の心理や運が働くはずだ。抵抗もされるだろうし、自分の手の力も無意識に緩んでしまうのではないか。そう簡単に事は運ばぬに違いない。
 遠野が最も心を配ったのは、そこであった。
 もしそうなった時のために、遠野は彼女に対して日頃苛立っていたことをいくつも思い浮かべていた。
 ───恋人なのに少しも目を合わせようとしない。
 ───執拗しつこいくらいに自己卑下をする。
 ───うじうじと優柔不断を拗らせ、デートの時間を無駄に消費する。
 ───そして何より、少しも歌を真剣に聴いてくれない。
 ───僕の歌が好きだと言ってくれたのに。
 ───だから彼女を相手に選んだのに。
 小さな不満を積み重ね、凝り固め、付け焼き刃の殺意を補強する。
 ───よし、やれる。
 どんな相手でも、付き合いを続けていく内に不平不満というのはあるのだろう。もし彼女に抵抗されたり、殊勝にも良心が咎めるような事があればそれを思い出すのだ。そして、何としても最後までやり遂げる。
 大した恨みなどありはしない。あくまで自分ひとりの勝手な目的のために、身近な人間を縊り殺す。親元から離れて久しい遠野にとって、彼女は最もその目的に適う人間であった。彼女を殺さなければならないというのは、即ち彼女を───愛していたという事だ。
 愛していたはずの者を無理矢理に恨んで、殺すのだ。間違いなく地獄に堕ちるべき外道であろう。死んだ後などという悠長な話ではない。生きながらにして地獄に堕ちるだろう。
 ───だがそれでも構わない。
 遠野は人ではなく、青い海になるのだから。
 人を辞めねば、海には成れぬ。
 そんな覚悟をして、ここに臨んだ訳である。
 だが───事は余りに都合良く運んだ。
 懸念していた事など、微塵も起こらなかったのだ。
 見るだけでいいから、危ない真似はしないから。そう言うと彼女はあっさりと遠野の誘いに承諾し、親に何も言わずこっそりと抜け出して来た。これで彼女が消えても、遠野と一緒に居たという話は出て来ない。
 さらに。川は予想以上に増水しており流れが激しく、周りには人っ子一人居なかった。目撃者どころの話ではない。川辺まで来ても二人だけである。
 誰も居ないから余計いけない事してるみたいだね───と柄にもない事を言い、彼女は照れくさそうに笑った。
 全くの無防備であった。
 ───本当に良いのか。
 遠野は半ば困惑しながら、背中を見せた彼女の首を、
 静かに括った。
「あ───」
 彼女は少し驚いたように息を漏らし、硬直した。
 手に持っていた赤い傘が、川へ転がり落ちる。
 本当に、予想もしていなかったのだろう。
 その間にも縄は確実にか細い首に食い込み、血中酸素の供給を───彼女の生命活動を減衰させてゆく。彼女の思考の空白は、ほんの数瞬の事であったのかもしれない。だがそれは、死へ抗うための力を彼女から決定的に奪い去っていた。
 白く小さな手が弱々しく痙攣しながら、ようやく遠野の腕に伸びる。
 もう腕を掴む体力も失われている。雨露で冷えた彼女の指先が、縄を握った手の甲にそっと添えられた。
 遠野は縄を力強く握り締めたまま、茫然としていた。
 ───本当に自分は今、人を殺しているのか。
 あまりに穏やかな殺人である。
 仮に人が見ていたとしても、この大雨に煙る視界の中では、少年が少女を後ろから抱き締めているようにしか見えぬのではなかろうか。
 彼女を縊るその手に添えられた感触は、抱き返されているかのように柔らかった。
恵寿香えすかちゃん」
 遠野は彼女の名前を呼んだ。
 声は掠れ、雨音に掻き消され───いや、それはもう届くはずもなかった。
 白い腕が、がくりと投げ出される。
 雨滴に濡れた銀髪をだらりと遠野の胸に預けるようにして、彼女は事切れていた。
 ───本当に死んだのか。
 後ろ向きに倒れ掛かっているため、死に顔は見えなかった。抱き留めていると、眠っているようである。
 いや、それ以上に───殺したという実感が、遠野に無かったのだ。
 抵抗の猶予も無く、彼女は死んだ。躊躇する暇も無く、彼女を殺した。
 何とも呆気なかった。
 この雨は明日の明け方まで続くという話であるから、このまま彼女を川に落とせば河口まで流れていくはずだ。
 遅かれ早かれ警察にも捜索願が出されるだろうが、行先の情報も無いのである。町の警察が川の捜索を始める前に、市外にある河口で身元不明の水死体として発見されるであろう。遠野の犯行が露見する確率は、極めて低くなった。
 だが、そんな事はもうどうでもよかった。
 遠野は、人を殺すという感覚を完全に逃した。心が動く間もなく、ただ遠野の腕の中に死骸が生じただけであった。抱いているのが、自分の恋人だったものだとも思えなかった。
 ひたすらに、鬼魅きみが悪かった。
 死に顔を確かめる事も無く、彼女の亡骸を川に投げ捨てた。
 ぼちゃん。
 品の無い音がして、泥水が跳ね上がる。
 飛び散った汚水が、遠野のズボンの裾を汚した。
 ───濁っている。
 共感はおろか、何の感慨もありはしない。
 彼女は───恵寿香は、何も残さずに消えた。
 殺したという事実すら、公私ともに消えようとしている。
 遠野はただ俯き、立ち尽くしている。傘も差さない。ジャケットもズボンも既にずぶ濡れで、もはや泥の染みも何処についたか判らなくなっている。
 ───何も解らない。
 あの母親は、こんな風に我が子を殺したのだろうか。赤子ならば尚更無抵抗であったはずである。だが記事の供述を読む限り、悔いていたように思う。そういう時に殊勝な嘘をつけるほど、世間一般の人は狡くはあるまい。
 ───いや。
 世間一般の人は、人を殺さないのか。ならばやはりあの女は異常だったのか。遠野が今味わっているような虚無を、あの母親もまた味わったのか。
 遠野と同じように。
 何の感情も無く───大切な人間を殺したのか。
 ならば真の意味で罪を悔いる事などできまい。罪を犯したという実感が無いまま裁かれるのだから。ただ罪に相当するだけの罰を受けて、自分はそれに値する罪を犯したのだと受動的に理解し、元の社会に放たれるのだ。今の遠野が縄をかけられる事になれば、きっとそのようになるだろう。
 ───そうじゃない。
 遠野はふと思い出した。
 新聞だけではない。テレビにもあの母親は映ったのだ。すっかり生気を失った顔で手錠をかけられていた様子が、ワイドショーだかニュースだかに抜かれていた。目元が赤かった気がする。恐らく、泣いていたのだ。
 ならばやはり、違うのだろう。
 今の遠野は悲しくも何ともない。泣けるはずも無い。
 あの母親はきっと己の悪行を懺悔し、刑期を過ごすのだろう。
 自分とは、そこが決定的に違っている。 
 自分は裁かれもしないし、悔いもしないだろう。
 ただ、朧然ぼんやりとしたおりが残り───濁るだけなのだ。
「わたし───情けない」
 声が聞こえた気がした。先刻川に沈めたはずの、彼女の声が。
 彼女の口癖であった。丁度今の遠野のように下を向きながらそう言って、煮え切らない自分を責めていた。
 当然、声など聞こえるはずも無い。
 あの蚊の鳴くように絞り出される声では、この大雨に搔き消されてしまうだろう。いや───そもそも彼女はもう居ない。遠野が殺したのだ。
 殺した実感も無いのに、彼女の声が反芻されたのか。
 ならばやはり、惜しんでいるのか。
 ───何も解らない。
 遠野は荒れ狂う川を見つめている。
 濁っている。先が見通せない。水面は猛り、乱れている。
 濁流とはそういうものだ。凡百あらゆるものを巻き込み、それを抱えたまま海の方へと流れ去ってゆく。
 海は、この濁流すらも受け容れて尚───青いのだろう。
 だが。
 遠野の心は凪いでいる。凪いでいながら、濁っている。
 どれだけ目を凝らそうと、その奥にあるものが判然はっきりとしない。
 ───これでは駄目だ。
 海でも濁流でもない。
 く解らない、薄汚れて鬼魅の悪い何かが川面かわもに映っている。
 遠野は厭な顔をして、目を逸らした。
 彼女の白い腕は、うに何処かへ流れ去っていた。

 その日。
 遠野長閑は、自分への共感を見失った。


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