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演出家は嘘をつく商売。

20200420 (月)

絵を描く事が僕の仕事の一部ではあるけれど、絵を描くという行為が好きかと問われたら、絵描きの人の絵に対する想いを知っているので迂闊に好きと言うことは出来ない。しかし自分の描いた絵が好きではないと(正確には好きになれる絵が描けないと)仕事にならないという点からして、少なくとも僕は僕の絵を好きになるべく努力をしている。

この「自分の仕出かした何かを好きではないといけない」という縛りは、生活の糧を得る「仕事」と言う括りにおいて苦痛・苦悩の連続でしかなく、良い絵が描けたかもという高揚感・万能感と、ゴミ屑以下の物を描いてしまったと思う陰鬱で絶望的になる感覚のジェットコースターを繰り返し続けていて、しかしこれはあまり健全な人生であるとは思えない。もっと絵が上手ければもっと楽にいろんな事が出来るのにと思うけれど、でもきっとこれは絵描きでは無い人間の悩みなのだろうな……と周囲の天才的な絵描き達の姿を見て思う。苦悩のない人生なんて存在しない? うん、そうかもしれないね。

今日は机に向かった大半を、その好きになるための努力に費やしていた気がする。費やしたけれど、じゃあ描けたかと言えば「全然」としか言いようのない結果なんだけれども。天候は最悪だったし、何も仕事が進んでいない気もするけれど、送られてきた画稿が素晴らしくて見ているだけで幸せになれた。

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20200421(火)

よく「監督」と役職名を言われる事があるけれど、僕の中では違和感があって、むしろ自分は監督ではなくて演出家であるという認識の方が強い。理由はいくつかあるんだけれども、御多分に洩れず現状で公表できる物は限られているし、今のこの場で書かれるべきものでもない。ただこの外的なポジションと内的なポジションの差については何年も前から悩まされてきた事くらいは話しても良いかもしれない。

この外的ポジションと内的ポジションの埋めようのない差というのは、しかし冷静に考えてみれば世の中の多くの大人たちが抱えている問題であって、決して特別なものではないのだけれども、自分のような仕事をしているとその両者が同一であるという幻想を強いられる事が多々ある。よく「主人公は監督の分身だ」とか言うアレもそのひとつ。

それを否定する事で自らの精神の安静をもたらすかもしれない。けれども、かと言ってそれが逼迫した制作状況の好転を導くことは(大抵の場合)無い。演出家の本当の仕事は演出することではなく、作品・商品をそれなりに観れる体裁に整えて納品する事にある。だから演出家は手っ取り早く嘘をつく。周囲にも、自分自身にも。嘘をつき、虚像を肯定し、それを利用する。

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……そのように教えられ生きてきたけれど、40代前半にとある作品を作り終えた後で体を壊して、席を置いていたスタジオを離れて、色んな人と出会って見聞きして、多くの作品に立ち会って、そして幾人かの友人を見送って、もうそう言う嘘をつくことに疲れたなと思うようになった。過去の自分からしたらそれは廃業を意味するけれども、それもまた良いのかもしれない。今は、その自分がついてきた嘘についてケジメをつけているようなものなのかもしれない。いや、意外としんどいぞ、このケジメとやらは。

今日は「人が死ぬエピソードはメンタル的に辛いな」と思って絶賛作業中のモノを保留棚に置いて、午後からは企画進行中の別の仕事に手をつけてみた。いい感じに進んだけれど、やっぱり人が死ぬエピソードが入るのは何故なのだろう。

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