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評⑮ホリプロステージ『hana-1970、コザが燃えた日-』芸劇プレイS席9800円

 ※以下、一部再掲重複、ネタバレあり
 沖縄返還50年、今年は沖縄を巡る芝居が多く上演され始めている。これもその一つ。
 ホリプロステージ『hana-1970、コザが燃えた日-』
 東京芸術劇場プレイハウス2022/1/9(日)~1/30(日)(※1/21~23の4回は関係者にコロナ陽性の疑いが出て中止、その後陰性とわかり再開)。S席9800円。サイドシート7000円など。1時間40分(休憩なし)。
 1/30(日)に東京公演千秋楽を観た。その時点では大阪公演(2月5、6日)、宮城・多賀城公演(2月10、11日)が控えていた。それらが終わって、感想を書いて公開する気力(勇気)があれば、とした。
 ※途中評⑮ホリプロステージ『hana-1970、コザが燃えた日-』芸劇プレイS席9800円(2022年2月1日)

関係者がコロナ陽性で宮城公演(2月10、11日)中止

 2/8(火)、「公演関係者に新型コロナウイルスの陽性反応が確認」により、宮城公演(2月10、11日)中止が主宰者から発表された。
 コロナによる中止は非常に残念でしかなく(東京公演も一部中止されたし、自分もそれに直面した)、関係者の方々の悔しさ、悲しさは自分の想像を超えるだろう。

 が、自腹で観た、何の利害関係もない自分は、観劇で感じたことを単なる愚痴ではなく、それなり(素人なり)に理由を持って書きたいと思う。それは、きちんと観た故と思ってくれればありがたい。
 なお、その公演を観る前に、知人からやや厳しい感触(詳細は無し)を聞いた。それが自分の観劇姿勢に影響したとは思っている。
 つまり、最初から批判的に観るつもりで観た。そこを割り引いてほしい。
 あくまで素人の私見である。

新劇コンビによる、松山ケンイチ主演のプロデュース公演

 メンバーは以下のようになる。

 主催・企画制作:ホリプロ
 作:畑澤聖悟(書下ろし)
 演出:栗山民也(元新国立劇場演劇部門芸術監督、元同演劇研修所所長、紫綬褒章受章者)
 キャスト:松山ケンイチ(ホリプロ)、岡山天音(あまね)(ユマニテ)
神尾佑(ヒラタオフィス)、櫻井章喜(文学座)、金子岳憲(Duck Soup)
玲央バルトナー(新国立劇場演劇研修所第11期生[15.04~18.03])、上原千果(ホリプロ)、余貴美子(アルファエージェンシー)
 
 うたい文句は「栗山民也×畑澤聖悟(こまつ座「母と暮らせば」)と(会話劇初主演となる)松山ケンイチが初タッグ!」(チラシと公式HP)。
 2010年死去の井上ひさしの遺作の一つ、『父と暮せば』と対になる作品を残す井上の構想を受け継ぎ、2015年に山田洋次監督が映画『母と暮せば』を製作。この『母と暮らせば』を2018年に舞台化したのが栗山(演出)、畑澤(作=脚本)という。新劇の解釈は微妙だが、とりあえず西洋モノとは限らず、筋建てがしっかりして明瞭にしゃべる会話劇系としておくと。
 新劇系コンビの作・演出による、松山ケンイチ主演のプロデュース公演(劇団ではなくユニット)という理解は、あながち間違っていないだろう。

構成:主役は「おかあ」ではなかったか

 返還(1972)直前の沖縄、1970年。コザ市(現・沖縄市)で米軍人が沖縄人をひいた交通事故をきっかけに発生した米軍車両・施設に対する焼き討ち事件「コザ騒動」の夜、バー「hana」で展開するある家族の物語。やくざの長男(松山)、県(教?)職員の次男(岡山)、泣かないおかあ(余)、娘(上原)、おかあのヒモ(神尾)、次男の先輩、ルポライター、脱走米兵。

 で(ネタバレだ)、みんな血がつながらない(これは事前情報にある)。

 で(さらにまじのネタバレ)、娘はかなり前に(米兵に?)殺され、おかあの眼にしか見えていない。次男やヒモは話を合わせている。久々に戻ってきた長男はそれを知り愕然とする。長男、次男がぶつかり合い、おかあに「泣いていいんだ」と伝え、おかあはついに泣く。その一夜の物語。

 で、自分の眼には主役は「おかあ」にしか見えなかった。全体を貫くメーンテーマは、理不尽に娘を失い、精神的に不安定となり、幻影を見ているおかあが、再び泣く話だ。
 もし、松山演じる長男が主役であるなら、苦悩するおかあを見てさらに苦悩しそれを経て成長する長男、という視点でもっと描けたのではないか。やくざである長男の苦悩はそれほど描けていたように思えないし(妹との関係は少しあったが、次男と並列であったか)。では、と、おかあを主役に考えた場合は、主役としては掘り下げ不足だった。最初からおかあを主役に組み立てればすんなりと「沖縄の母の苦悩」が伝わってきた気がしたのだが。
 つまり、松山主役ありき、のプロデュースによる、台本構成の歪みが出たのではないか、と、素人が勝手に思う次第だ。
 各人を並列に並べる群像劇、でもなかったようだし。。

構成:伏線が少なすぎたか、前後半がつながらない

 その焦点となる娘(ナナコ)は最初にチラッと出てきて、しばらく引っ込み、後半突然「実は死んでました!、どうだ!」とばかりに照明も変わるわけだが。……正直、突然すぎて「は?」という感じだった。ネタバレしないようにして、「実は」と客をびっくりさせたいばかりにか、前半に「伏線」が少なすぎて、頭が素直に受け止めなかったのだ。自分の頭の中で、前半、後半がうまくつながらなかった。
 これが映画だったら「最初ちらっ、後半どかーん」もあり得る展開な気がしないでもないが、舞台だと途中から多少ネタバレ的に伏線を張る方がありではないか。上手く言えないが。

沖縄:「被害者としての沖縄」以外の視点はあったか

 沖縄の問題は今も重く、自分が軽々に語る資格も知識もない。ただ、この芝居ではウチナーンチュ(沖縄の人)の被害者感から、その先への拡がりはなかったように感じる。確かにある面において間違いなく被害者であろう。しかし、その視点だけでいいのか。物事には多面性があり、誰が加害者か被害者か、また、真の加害者は被害者は誰か、常に問い続ける姿勢が演劇には必要ではないか、でないと単なる主張になってしまう。
 脱走米兵、贖罪を語るヒモが、ある程度のバランスにはなっていたかもだが。

沖縄:言葉、コザ騒動の情報伝達、改めて沖縄舞台の意味

 さらに、沖縄言葉がどれくらい俳優の身体に沁みついているのか、自分にはよくわからなかった。自分の脳に、沖縄言葉がすんなり届く人とそうでない人がいた気がする。方言芝居は標準語芝居に比べ手間暇かかるはずだが、ユニット制でどれくらい手間暇をかけることができただろう。

 コザ騒動の情報伝達が不十分に感じた。コザ騒動を結構知っていることを前提に話が進むというか。べたなやり方だが、映像や字幕で最初に流すのでもよかったか。
 それも含め、この家族の話を描くのに、果たして沖縄を舞台にする必然性がどれくらいあったか。家族を殺された家族の話は残念ながら各地にある、それがどれくらい、沖縄の情勢や人々の思いと結びついて描かれていたか。

 不用意に書くべきことではないが、沖縄の問題が描かれている、それだけで「なんてかわいそうなんだ! 歴史を知らなければいけない!」という時期は、返還50年の今、とうに過ぎている。確かに、自分は無知だ。しかし、もう一歩沖縄は踏み込んでほしいのか、ほしくないのか。その辺で、けんかするぐらいでないと、本当の「理解」は深まらないのではないか。

 ……それだけのことが書き込める人だと思っている。

 あと、ひとつ。ハコ(劇場)である中ホール規模のプレイハウス(834席)が大き過ぎ活かせていない。商業演劇なので一度に観客を多く入れたいので仕方ないか。といっても帝国劇場(1897席)などに比べれば半数だが。
 新劇系コンビが作った新劇系芝居なのもあるが、そうした舞台が多く上演される紀伊国屋ホール(418席)的な芝居の気がした。上手く言えないが、芝居にはその芝居に合ったハコがある。

 構成、沖縄、ハコ、まとめ直すともっとキツクなりそうなので、9800円払って観た素人がつらつら書いたまま、にしておく。
 でも、一所懸命観て、一所懸命書いた。

 関係者の皆さま、大変お疲れさまでした。さらにいい芝居を期待しております。

 

 
 


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