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・今日の周辺 2022年12月のはじまりから冬至

○ 今日の周辺
図書館からの帰り、前に住んでいた家の方へ自転車を走らせる。幼少中とそれまでのいろいろな思い出、時間、気持ちが道のそこらじゅうに落ちていて、自転車で走り過ぎるのには速すぎた。友人と下校する十数分間があんなに面白かった。

自分の周囲をいろいろなことが取り巻いているけれど、それを不安に置き換えずに、ひとつひとつ手をつけて宙に放る。
バスケットボールの授業で「トラベリング!」と言われまくったのを思い出す。
ボールは1人がずっと持ってゴールまで運びきらなくても、頃合いで宙に放ったりして相手や誰かに任せてしまうことができたほうが何かと楽なんだとわかる。
自分に抱える時間を少しづつ短くしていく。バスケに気質が出てて笑える。

高校からの友人たちのイベントに、高校からの友人と行く。
高校時代の友人はそれぞれにいろいろ制作活動など続けていて、こういう機会はたまにあって、長く会っていなくとも、顔を合わせれば自然と目の前が色づくことに驚く。長い時間が経っているはずなのに、昼休みや放課後みたいなラフさで新たに関係が生まれたり、凍らせてしまったものがふと解けたりする。
変わっていないはずはないのだけど、変わらないと思える、過去の居場所がこうして人が集まることで一瞬にでも目の前に現れることの中にいることが不思議でならなかった。夜のはじまりにぴったりな催し、楽しかった。


○ 隣り合い
時間が経ってしまったけれど、ドラマ『silent』8話
春尾さんと奈々さんのエピソード、出会いと別れの間に生じた思いや喜びが大きくすれ違ったのは辛かったけど、1話の中にじっくり取り上げてもらえて幸せだった。
夏帆さん本当すごいな、というか奈々さんの人となり、感情の起伏と瞬発力、笑顔と、自分の中だけに湧いた怒りを伝える力、それがいつも共有可能と思われなくとも(怒りは共有されていないから怒るものだけれど)相手に示してぶつけることができること、ちょっと憧れる存在。
春尾さん、好きな役だな、
ふとすれ違うところ、リアルに感じた 声をかけようか迷う どんなに心の中に大切な人になっても、ともすればただ偶然、大学で出会った他人、になる。

2人が手話で話している間、その静かな時間が好き。
まず時間感覚、手話を用いているから、というだけでなく、人と人とのコミュニケーションの間合いが絶妙で、ゆったりとしていながら張り詰めてもいる。
夏帆さんの奈々さん、すっごく素敵だったな……服装も髪型も、演技と手話も、魅力が存分に引き出されている役だと思った。
どのシーンもずっと、それぞれに大切な制約のある時間として描かれる、一人ひとりが存在していることで確かに誰かに影響を与えて受けている、
篠原涼子の「おかえり」のたった一言の迫力が、その人の風が吹いたようだった。
人と人とのつながりを成り立たせているのは固い約束や契約でない、互いの緩やかなその度の頷きによって時間が連なっていくような感じが快かった。

登場人物として物語の中にも、演者として演じるために考える中にも、視聴者を含めた誰もが深く愛され信頼される、そうしてそれぞれのかたちで現実の世界に送り出される、そういう作品だと感じていた。
もう誰も物語の中に死ななくてよくて、癒えない傷は負わないで欲しいと思っているところだから、
そう思うことは、過剰な物語の演出でしか慰めることのできない現実を繰り返したくないと願うことだと思う。
明日最終話。でも本当、現実はそんなふうに言ったり願ったりで解けることばかりではないなあ、と帰りの電車で思い直す。

最近読んだのは、
ヘレン・ケラー『奇跡の人 ヘレン・ケラー自伝』
映画『奇跡の人』と照らしてみると、2人を目の前に、そこに生じているやりとりにいっとき困惑するような客観的な視点と、ヘレンのその時の内なる葛藤や戸惑い、苛立ちと、障壁を跳び越えたことの大きな喜びが不思議とぴったり重なって腑に落ちるような感覚を味わう。一見滅茶苦茶のように見える身体の暴れや感情の表れに、説明・伝達可能な理由や思いが渦巻いている。ただそのことを伝える術が人と結ばれていないだけで。
人の内なる葛藤はわからない、わからないということがそのことの存在を知らせる。


○ あれこれ
制作や作品を通して人と知り合うことができることは自分の周囲には本当にずっと当たり前のことだったから気づかなかったけど、それは全然当たり前のことでなくて、稀有な関係性の作り方だったんだって今頃知った。私は多分いつもそこに頼りすぎてもいたから、身ひとつで自分のことを伝えていく力が弱くもあるのだと思う。

診断を受けるために自分の症状を客観的な言葉に換えて伝えられるよう準備したり(私自身のことなのに、客体化すると比較したり相対化できる対象に翻るようでそういう辛さもあるな、とか、これまであまり通院する経験もなかったから余計にそう感じるのかもしれないけれど)、次の仕事のことを継続可能であるかどうかを変動して止まない自分に尋ねながら検討したり、とにかく生きのびていくためのことよりも、ただ今生きるためのことが私には毎日に大変すぎて困る。
事前に記入できる問診票の項目を見ていても、これでは自分の困りごとを伝えるのには不十分だと思って、順を追って具体的に書き出してみたりとか、そういうことをする中で、自分が抱えていることは説明可能かつ共有可能なことなのかもしれない、と思えたりもして、これもまた戸惑いとの両面ではあるのだけど、渦巻きから抜け出す可能性がこの先にあるかもしれないと思って根気よくやろうと思う。期待しすぎるのもよくないけれど(ぶつぶつ)。


友人が私のことを「街中で風に舞うビニール袋みたいな人」と形容してくれたことがあって(母親に「〜さんってどんな人?」と聞かれてそういうふうに説明したらしい)、まあなんか考えられる両面の意味を含めて結構気に入って取ってある。


図書館で借りた『アンネの日記』最後の文、
「ここまで一挙一動を見まもっていられると、だんだんわたしはとげとげしくなりはじめ、つぎにはやりきれなくなってきて、しまいには、あらためてぐるりと心の向きを変え、悪い面を外側に、良い面を内側に持ってきてしまいます。
そしてなおも模索し続けるのです。わたしがこれほどまでにかくありたいと願っている、そういう人間にはどうしたらなれるのかを。きっとそうなれるはずなんです、
もしも……この世に生きているのがわたしひとりであったならば。」

人生にいいところばかりを摘むことができないことはわかる 
ひとりっきりでいることはつまらないことでもあることもわかってる けど、そうせずにはいられない
私には今 自治できる領域を持っておくことが必要

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