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・今日の周辺 2023年 春は電車の音が部屋に耳によく届く

○ 今日の周辺
桜を見に行こうと楽しみにしていた週末は両日とも雨です。
今年は曇り空の白い背景に桜の花だ。朝の支度を済ませて、小石川植物園に行く。
雨ということもあって、園内は人もまばらでのんびり散策する。
桜の大木の枝が伸びるところまで伸びてから、地上に降りてきている、雲が降りてきたみたいに、目に映る。
鳥の鳴き声の中を歩く。地面の緑の草の上に散った花びらが濡れて透けているのがきれいだった。

乳製品が食べられなくなった。
チーズ、ヨーグルト、アイスクリーム、カフェオレやミルクティーの牛乳、普段そんなに乳製品をとる方ではなく、けれどどれも好きで、久しぶりにヨーグルト、久しぶりにアイスクリーム、久しぶりにカフェオレ、ミルクティー、食べるか〜、飲むか〜、というところ、おいしかった、のあとで、胃を引っ張られるような調子の悪さを経験して思い出す、乳製品だめになったんだった……。
花見をした公園にキッチンカーが来ていて、ジェノバジンジャーポークライスを食べた。満開の桜の木の下のベンチで食べるお弁当はおいしく、少し肌寒い日に温かいご飯は嬉しい。
移動する電車の中で、身に覚えのある不快感。……そういえばサラダにかかっていたソースがチーズソースだった。
少量でも反応するということは乳製品に含まれる添加物とかのせいなの?普通に乳糖のせい?乳製品、好きなんだけど、程よい距離感保っていたい。

新しい環境での仕事、人の流れの中にいることは快い面もあるけれど、やはり困りごとは自分の方に留まる。
これまでの10倍の人の中で働いている。複数人で輪になって話したりすると、1人の存在感は薄れていく、その中で困りごとは気にしなくていいものにもなっていく、そのことに安堵感を覚えながら、けれど、それだけで、いいのだろうか、とも思う。薄れる、忘れられる、ことは「ない」ことと同義でない、ということが引っかかっている。

言葉になっていることばかりが何度も何度も話される、言葉で言えることばかりが口を出ていくことは、不用意に強調されていくことのように思えて恐ろしくもある。


○ あれこれ
川上未映子『黄色い家』読了

信田「いわゆる恵まれた環境にある人たちが悪気なく、無意識に人を差別して傷つけているかもしれないことと、花たちのように生きるために犯罪に手を染めることと、どっちが真っ当か。そんなことを考えますね。」

どちらが、とか、どちらの方が、とか、結論づけようと思わないけれど、言葉の上に目が留まる。
差別、この世界のどこかにいるとしても、自分の周囲にいなかったら(と思われるなら)、その人の存在は自分に意識されない。
自分の周囲にいない人の存在を私がどのように扱うのか、ということ、新たな環境で交わされる言葉によりいっそう注意深くなる、自分のにも、他者のにも。

人と話すのは楽しいよ、
けれど、いつも言葉にならないほうのことが伝わらない、伝える術がないことが心許なく感じられて蓄積していく。
言語化されていないことは、伝達することが難しく、経験的に知られているかどうかによるしかない。
考えても仕方がないといわれる類のことをどうにもできないことは私にとって危うい。

高田マル『忘れられない絵の話』
人の固有の認知とその経験、体験について、その人の言葉で聞ける、というの面白い。
高田さん、話の導線を引くのがうまく、話し手は「聞かせる話」を離れて、思いの寄らない方へ自然と歩いていける。けれど、疑問に感じられるところはしっかり突く、という話し方で引き出されていく、記憶の曲がり角のほうというか、影になっていたところに光が当てられ、個人的な話から何か真理みたいなものがふと顔を出すとき、ちょっと怖い。

人が言葉にして伝えること、伝えた相手の背景を知らずに。
そうしてそのことを受け取る人、その人がそう言った言葉の背景を知らずに。
言ったように伝わらなくて当然で、その言葉を手渡し、その言葉を持ち帰る。

『Aguas De Março』(3月の雨)
南半球の3月の雨は夏の終わり、雨に濡れたあらゆるものたち。軽やかに次々に連なって止まない記憶の断片。
こちらは3月の冷たい雨で冬の終わりを越えた。


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青葉市子さんのリリックブック届く

今年は機会があったら青葉市子さんのライブに行ってみたい。

大江健三郎『懐かしい年への手紙』『大江健三郎往復書簡 暴力に逆らって書く』、図書館で借りてみる。はやく読みたいけど、なかなかまとまった時間をつくれず。


窓ガラスに水滴が付いた夜のモノレールの中で。

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