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病院は、時間の概念がない世界だった。

某月某日、診察の日。

病院に到着したら、まずは入口の受付から。

予約時間は決まっているけれど、まず時間通りに診察は始まらない。それなら、せめて予約時間までに来て、早く受付を済ませたい。受付順なら、少しでも早く自分の順番になってほしいと思いつつ。

診察券を機械に通す。今日の自分の番号が決まる。

それを持って自分の診療科まで行き、そこの受付で予約票を見せる。

まずは第一段階クリア。

空いている席に座り、自分の番号が呼ばれるまで待つ。

待つ。待つ。待つ。
ひたすら待つ。

ようやく順番が回ってくる。
検査の指示が出る。そのまま検査のために移動。

階が違うとエレベーターに乗る。そこから床の矢印に沿って、または上に表示されている番号を頼りに、うろうろ探し回ることになる。

自分のときはいいが、高齢の父や母の付き添いのときは、これが結構なストレスになる。
膝に痛みのある母は、ゆっくりしか歩けない。総合病院だと、エレベーターを出てから目的の診療科まで意外に距離がある。迷路みたいに右に左に曲がりながら歩くときも。
本館・新館への移動があったりすると、5分以上歩いていたりする。

目的の場所を見つけるだけでひと苦労。
検査を受ける前に疲れてしまう。


そこでまた受付を済ませ、順番が来るまで待つ。そして、終わったらまた元の診療科まで歩いて戻る。


採血やレントゲンといった、その日に結果がわかるものは、また呼び出しを受けるまで順番を待つことになる。
検査の結果が出て、診察室にデータが来るまで、また時間がかかる。
この段階になると、いつ終わるかわからない。周りの人が少しずつ減っていくので、がらんとした待合スペースで、忘れられてないだろうか、ほんとに呼ばれるんだろうかとだんだん不安になっていく。

私がせっかちだからかもしれないけど。
待合室では何回も時計を見ながら、修行のようにベンチにじっと腰かけて待つ。

この頃には、今日一日ずっとここにいてもいいやと思うようになる。
持って来た本も読んでしまい、メール等の返信もとっくに終わり、もうすることがない。母とのお喋りもネタがつき、「まだかなあ」を繰り返しだす母の声を聞きながら、げんなりしてしまう。


ここまでで、半日ほどかかる。朝いちばんで病院に行っても、お昼どきになっている。
気の遠くなるような長い時間を辛抱強く待つのは、自分のからだを診てもらわないと困るからだ。別の日に、などと途中で予定変更して帰ったりなんでできない。予約をとり直ししようとしても、都合の良い日に空いているとは限らない。そして今日と同じことをまた一から繰り返すだけ。なら、今日のうちにやるしかない。



こんな作業、時間を気にしていたらやっていられない。
時間の感覚を感じたら、気が遠くなるだけ。絶望しかない。

今日は一日中病院にいるつもりで。
何があっても、どれだけ時間がかかっても、少しでも楽しく過ごせるように、時間潰しの手段を用意しておく。そうでもしないと、待合室の椅子に座り続けるなんてできない。


でも、以前「中」にいた経験からいうと、医療従事者にとっては、いつのまにかお昼どきになっているほど、あっという間に時間が過ぎてしまうのだ。息つく暇もなく働き続けているのだ。ひたすら患者さんへの対応を続けているのだ。

患者さんの受付の順番を間違えないように。少しでも早く診療が終わるように。待合スペースでじっと待ち続けている患者さん方をちらちら見ながらも、来られた方への公平性も失われないように。

同じ空間で同じ時間を過ごしているのに、お互いに、こんなに時間の感覚が違うのだ。

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