見出し画像

ショートストーリー | キスと紫陽花と

たぶんその頃のわたしは、多忙な日々に少し病んでいたのだと思う。今でいうブラック企業でこき使われていた。昼間、デスクに向かって書類チェックをしているとき、不意に涙が溢れて止まらなくなることもあった。

当時、向かい合わせの席に、2つ年上の先輩がいた。さらさらの前髪と太くて無骨な指が印象的だった。

後輩の面倒見がよく、優しい人。彼は既婚者だったし、お互い、男女を意識することもなく、先輩後輩としてうまくやってきた。はずだった。

デスクでわたしが泣いてしまったとき、一度だけ黙ってハンカチを差し出してくれたことがある。親切だなと思ったけれど恋愛感情は生まれなかった。

ある金曜日の晩。わたしはまだ仕事を終われないでいた。

今夜は花金だ。23時。諦めの境地で夕飯のカップラーメンをすする。あーあ。今夜も徹夜かぁ。

気がつくとそばに先輩がいた。不機嫌そうにたばこを吸っていた。彼も徹夜するらしい。

猛烈に腹が立ってきた。なんて会社だ。そもそも人手が足りてない。人づかいが荒い。そのくせ給料は安い。あと1年、2年がんばっても、おそらくわたしは、この先輩のように、花金に愚痴りながら、徹夜仕事をしているのだろう。命を削りながら働くのは、もうごめんだ。

プツンと何かが弾けた。先輩と二人きりのフロア。その晩は驚くほど仕事がはかどり、夜が明ける頃にすべてを終わらせた。やった。終わった。これで土日はゆっくり休める。休んでやる。
ざまあみろ、会社。
やめてやる、こんな会社。

気がつくと、雨が降っていた。

デスクの上を片付けながら帰り支度する。
マイカー通勤してる先輩が「送るよ」と言ってくれた。厚意に甘え、大きな四駆車に乗り込む。

当時、会社から歩いて20分ほどのところにワンルームを借りていた。車だと、あっという間。マンション下の植え込みのそばに車が滑り込む。6月。そこには、紫陽花が咲いていた。

なんとなく、今、な気がした。
「会社、辞めようと思ってます」。

「そうなんだ」。
驚く素振りもなく、胸ポケットからマルボロを取り出し、火を付ける。車内は一層、たばこ臭くなる。

沈黙。

気まずさを打ち消したくて、わたしは自分の不甲斐なさや会社への不満をぶちまける。話していると、つい感情が高ぶり、涙があふれて止まらなくなった。

「すみません。泣くつもりじゃなかったのに。送ってもらって、ありが」

言葉を遮るように、先輩は、じぶんのくちびるでわたしのくちびるをふさぐ。

彼の前髪が、わたしの頬にかかる。
太い指が、わたしの顎に触れる。
向かいのデスクから眺めていた、あの髪や指が、今、わたしの一番近くにある。

「辞めるなよ」
彼は少しくちびるを離して
低く、くぐもった声でそう言った。
返事を待たずに彼はまた、くちびるを重ねてきた。

舌が、わずかに辛い。たばこの味。



雨が一層強まる。ボンネットを叩く雨音と、舌が溶ける音が混じり合う。

窓ガラス越しに見える紫陽花は、紫だったか。ピンクだったか。激しい雨に打ち付けられるガラスは、花の輪郭をかき消した。そこにはただ、円く美しい色彩がぼんやりと浮かぶだけ。

一瞬の隙をみて、慌てて身体を離す。
逃げるように車を降りた。

それから会社を辞めるまで、わたしたちは何事もなく過ごした。辞めてからは連絡さえ取っていない。

今もときどき思い出す。
あの日のキス。あのキスの意味。

好意を持ってくれてたの?
あわよくばの下心?
辞めるなよの励まし?
それとも、単なる徹夜明けの悪戯?
たぶんどれも正解。
あの日の紫陽花のように
ぼんやりと曖昧なまま。
それでいい。

わたしが受け入れたのは
キスが上手だったから。
メンタルが弱っていたから。
紫陽花がきれいだったから。

そういうことにしておこう。

=END=

甘野さまの企画に参加させていただきました。読んでいただき、ありがとうございます。

実は
初のショートストーリー。
初のキス話。です。

書いた後から、猛烈な恥ずかしさが襲ってきます💦楽しんでいただけたらうれしいです。

#あなたのキス

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?